北鎌倉の紅葉-5・円応寺

円応寺鐘楼と枯萩

枯萩や閻魔笑へる円応寺

建長寺で時間を使ってしまい、あじさい寺まで戻る時間はなさそうだ。もう2時を回っている。鎌倉街道をはさんだ、建長寺のはす向かいに円応寺という、閻魔大王で有名な寺があるらしい。面白そうなので覗いてみることにする。
トンネルのちょっと手前、ちょうど崖になっているため、お稲荷さんのような赤い幟がなければ危うく見逃すところに、狭く急な石段があり、そこを上れば三門がある。
境内は狭く、門を入った正面に本堂があり、すぐ左手に、入場料などを払う受付所、右手に小さく素朴な鐘楼、たしか右奥に庫裡のようなものがあったと思う。庭は、一面に枯れた萩、どこか田舎の寂れた山寺を思わせる。観光客は3、4人いるだけだ。
本堂は、がらんとした四角い部屋に、コの字型に高さ一メートルほどの棚があり、そこに、閻魔様を含む十王と言われる偉い官吏さんがいらっしゃる。入口中央に閻魔大王がいて、その左右にそれぞれ恐い顔をした偉い人が並んでいるという構図。
この閻魔大王は、運慶作と言われているらしいが、どうも信じがたい。顔は確かに恐ろしく、迫力があるのだが、体がまるでできていない。特に座っている下半身、腰のあたりに、全く力がない。おそらく運慶作ではない。
十王の説明が一人一人に付いていて、読んでいるとおもしろい。本当は写真を撮りたかったのだが、正面に大きく「撮影禁止」と書いてある。
円応寺の見どころは、本当にこれだけ。10分もあれば見終わってしまう。

円応寺三門 円応寺鐘楼全体
▲円応寺入り口の急な階段。右の写真は、建長寺そっくりだが、小さく素朴な鐘楼。

ここの唯一の見どころである閻魔大王は、どうも俳句にならない。庭の枯れた萩と鐘楼の組み合わせがちょっと趣があるので、そこを狙って見た。

枯萩に鐘埋もれたる円応寺

雰囲気的には、庭全体が枯萩に覆われているような感じがした。しかし、これはものすごく大げさ。本当にそうだったらおもしろいのだが。

枯萩や鐘楼の風円応寺

まだ3時前だというのに、この寺は山の影の中にあるということもあって、風が冷たい。なかなか手なれた感じで、枯れた萩に、秋の風を添えて雰囲気を出したところなど、見事なものだが、どこかつまらない。この手の俳句は、ちょっと上手な人なら、すぐに作ってしまうだろう。要するにおもしろくないのだ。点数を付けるとすれば、合格すれすれの65点というところか。
何を俳句にできるか。というよりも、ここで何に感動したのか。人に、この寺の何を伝えたいのか、もう一度考えてみる。
この寺は、閻魔大王で有名だ。とすれば、やはり閻魔大王を詠うべきではないのか。閻魔大王はじめ地獄の十王それぞれ、まあまあおもしろかった。そこが俳句にならないか?

枯萩や閻魔に会ひし円応寺

「閻魔に会ひし」は、どこかニュアンスがあるのだが、どうもこのままでは報告に終わっている。

枯萩や閻魔笑へる円応寺

この閻魔大王は、運慶が笑いながら作ったため、笑っているように見え、「笑い閻魔」とも呼ばれているらしい。確かに、そんな感じもした。顔だけが真っ赤に彩色されていて、他はほとんど色が剥げているため、その顔が、他の王に比べ非常に目立ち、表情は、恐ろしいというよりも、滑稽な感じがする。笑っているといえば言えないこともない。
と言いながら、この俳句は、もう一度考え直す必要がありそうだ。




北鎌倉の紅葉-4・建長寺

建長寺本尊・地蔵菩薩

建長寺本尊さやか坊主刈り

浄智寺を出たのが昼過ぎで、その後に食事をし、あじさい寺に行くつもりだった。ところが、鎌倉街道は人の波で、食事のできるお店というお店は長い行列で、長く待たされそうだ。食事の時間をずらして、先にあじさい寺に行くことにした。どうせみんなあじさい寺に行くのだろうと思い、人の流れに任せて歩いていたのだが、なかなか着かない。変だなと思っていたら、もう建長寺に着いてしまった。あじさい寺を通り過ぎていたのだ。
建長寺総門の前は、観光バスが数台停まっていて、総門から三門までは、人の波だ。さすがに臨済宗総本山、鎌倉五山第一位というだけあって。雄大な三門をはじめ、広大な敷地に数多くの伽藍が配置され、見どころが多い。
まず、仏殿にある本尊の地蔵菩薩を拝み、写真を撮らせていただいた。この地蔵は、かなり大きく威厳がある。目の異様に白いところが印象的だった。
次に、すぐ奥の法堂に行き、千手観音を拝観。ここは、どことなくがらんと広く、一番奥の御簾の陰に千手観音坐像があり、その手前に、たしか大阪万博で話題になった、パキスタンの釈迦像と狛犬の香炉?が置いてある。この釈迦像は、日本の仏像とはかけ離れた感じで、ちょっと違和感がある。

建長寺三門 建長寺鐘楼
▲教科書にも出てくる、雄大な建長寺三門と国宝の洪鐘建長寺法堂内仏像 建長寺法堂の千手観音
▲法堂奥から「千手観音象」、パキスタンから送られた「釈迦像」と「狛犬の香炉?」。右の写真は千手観音像のアップ。しゃれこうべを持っているところが面白い。

その後、唐門を見て、庭を拝見しようとしたのだが、人が多すぎてあきらめ、烏天狗がいるという、半僧坊に行くことにした。途中、正統院に寄り門の写真を一枚だけ撮影。非常に雰囲気があって、人も少なくいいところなのだが立入り禁止。
半僧坊までは遠く、途中、鳥居などが出てきて、建長寺のはずなのに、神社の雰囲気。考えてみれば、烏天狗と仏教は何の関係もないはずだ。どうしてそれがここにあるのかは、深く考えないことにして、苦しい石段を登りきって、やっと烏天狗がいる場所に出た。烏天狗が十体ほどと、大天狗が一体、山の斜面の岩陰などに、さまざまなポーズで立っている。観光用に作られた感じがあって、あまり風情があるとは言えない。
その上にさらに急な石段があり、それを登り切ると半僧坊だ。建物が一つと休憩所があるだけだ。見晴らしがよく、右手には富士山がきれいに見え、左手の休憩所からは、秋の日にきらきら輝く湘南の海が見える。

建長寺正統院門前 建長寺半僧坊の烏天狗
▲建長寺正統院と半僧坊の烏天狗

総門を入ってから出るまで、約1時間30分。ほとんど何も見ていない、という感じで回って、そのくらいの時間がかかってしまう。見どころが多いので、しっかり見ようと思ったら、この寺だけのために一日を割く、というくらいの気持ちがないとだめなようだ。
ばたばたと回ったため、とりとめのない印象だ。広大な敷地に大きな伽藍があったり、小さなお寺があったり、かと思うと、半僧坊のような、神道の修行場があったり、不思議な寺だ。

短日や知性とまどふ建長寺

神仏混交だったり、本尊が地蔵尊だったり、パキスタンの仏像を受け入れたりと、ほんのわずかではあるが、私が持っている寺の知識では、戸惑うことばかり、という気持ちを詠んでみた。下調べもなく、突然、しかも初めて来たのだから、戸惑うのはあたりまえ。「知性」は大げさ。自分のことなのだから、「知性」はない。

短日や無知がとまどふ建長寺

「知性」を「無知」に変えてみた。自嘲的でいいのだが、「無知がとまどう」ではわからない。
全体として平凡で、引っかかるものが何もない。発想を変えないとだめなようだ。

白き目の地蔵や秋の建長寺

建長寺らしさとは何か、改めて考えてみた。広大な敷地や大きな伽藍などを詠んでも古くさくなるだけのような気がするし、かといって、建長寺の歴史に思いを馳せるほどの知識もない。ただ、本尊の地蔵尊にはちょっと感動したので、そのことを詠んでみた。地蔵尊の白い目が非常に印象的だった。
ただ、これだと、だからどうなの、という感じがするし、「秋の建長寺」という季語の扱いも安易だ。

秋地蔵坊主刈りなり建長寺

この地蔵をはじめて見た時、どこか違和感があって、それが何かよくわからなかったのだが、この写真を見ていて気がついた。この仏像には髪がないのだ。髪がない仏像は珍しい。地蔵といえば、よく道端に立っている石の地蔵さんしか思い浮かばないのだが、確かに石の地蔵さんは坊主頭だ。この地蔵尊は、鎌倉の大仏様のような座像で、しかも大きいため、石の地蔵さんと同じ仏様とは思えないのだ。頭は、螺髪が取れてしまったような感じで、顔などとどこか質感も違う。
これはおもしろい。何か俳句になりそうだという直感があった。「坊主刈り」という表現は、すぐに思いついた。仏像が坊主刈りというのは、どこかおかしく笑える。ところが「秋地蔵」はだめだ。季語を入れる、というのは自分に課したことなので、入れないわけにいかない。

建長寺本尊さやか坊主刈り

季語に悩み、歳時記を何度も見直して、「爽やか」という季語に目をつけた。「爽やか」は、三秋の季語で、この坊主頭の地蔵さんにはぴったりではないか。
最初は「建長寺地蔵爽やか坊主刈り」としたのだが、どうも思ったほどおもしろくない。おそらく、「地蔵」と「坊主刈り」の組み合わせが当たり前すぎるのだ。「本尊」が「坊主刈り」であれば、そのギャップが何となくおかしい。字数を合わせるため、「爽やか」を「さやか」にした。動詞が一つもないためか、どこかぶつぶつしているが、まあこんな所か。




北鎌倉の紅葉-3・浄智寺

浄智寺の布袋さん

浄智寺や布袋うららか秋うらら

縁切り寺から鎌倉海道を鎌倉駅方向に少し下った所に、浄智寺がある。鎌倉街道からは、少し奥まったところにあるのだが、ここは、縁切り寺とは一変して、なぜか人が多い。
入口の所に池があり、石橋があって、そのちょっと先に「寶所在近(意味不明)」と書かれた小さな門がある。三門というものでもないので、何というのか。神社の鳥居のような門だ。そこからちょっと風情のある石段が続く。人が多いので、写真に撮ってもあまり様にならない。
石段の上に三門があって、どう見ても左に傾いているように見える、おそらく石段が傾いているためなのだろうが、気になる。この三門は、鐘楼も兼ねているということで中国風の珍しいものだという。しかし、どこか頼りない。新しいということもあるが、全体に作りが安っぽいのだ。撮影のセットのようだ。
その先に「曇華殿(読めない)」という本堂?があって、その中に釈迦三尊のようなものがあったらしい。ただ何となく歩いていたので、その時は気付かずに、写真を撮り損なってしまった。
境内はそれほど広くはないが、山の中にあるということで、それなりに雰囲気がある。建物なども、田舎家のような侘びた感じのものもある。でも、なんかポイントがないなあ、などと思いながら、奥に進むと、小さな洞窟の入り口のようなものがあり、「布袋さんのお腹をなでるといいことが…」といったような意味の看板があったので、入ってみると、それは単純に山に掘った、2メートル程度の小さなトンネルで、墓地に行く道に出た。
昔の東北の農家を見るような素朴な庫裡?(おそらく)の裏と竹林を見ながら行くと、奥まった所に墓地があり、その外れに、お腹に秋の強い日差しを浴びた布袋さんが唐突に立っている。たしかこの横だと思ったのだが、古いポンプで吸い上げる井戸があった。なぜか、鎌倉の寺には井戸が多い。
この寺の見どころは、この布袋さんかもしれない。高さな2メートル程度だろうか。見るからに布袋さんなのだが、手を前に突き出しているところが変わっている。この手は何だろうか。見に来た人たちがお腹に触るのだろう。お腹が黒光りしている。

浄智寺入口 浄智寺三門
▲混雑する浄智寺入口と左に傾いてみえる中国風三門
浄智寺本堂 浄智寺庫裡裏
▲本尊様を撮り損なった浄智寺本堂と、素朴な庫裡と庭

何かあっけない感じで回ってしまったため、この寺の特徴がよくつかめない。山の寺の侘びた感じと観光地特有の俗っぽい感じがごったになっている、という印象。あの新しい三門は、作った人の気がしれないし、あちこちに「江ノ島七福神」などといった幟が立っているのも気になる。
とはいえ、やはり由緒ある寺。ここで何か一句作りたい。この寺の特徴は何か考えてみると、どこか素朴で作らない感じ、あるがままののんびりした感じがいいのではないかということに気がついた。そうした意味から言えば、あの違和感のある三門や唐突な布袋さんも納得がいく。何でもかんでも受け入れて、こだわらないのだ。

浄智寺や布袋の腹をさする秋

私の頭の中では、「浄智寺ってどんなとこだっけ」といったときに、「布袋さんがいるところ」ということで、「そういえば、変な三門があった」などと、そこからいろいろと思いだすようだ。それだけ布袋の印象が強かったのだろう。句にするとすればやはり布袋さんだろう。
今回のコンセプトから、「浄智寺」という寺の名前は外せないとして、「布袋」と季語をどうからませるか、そこが難しいところだ。その点で、この句は苦し紛れで失敗だ。

浄智寺の布袋の腹の秋日かな

布袋さんの腹に眩しく注いでいる陽ざしに注目してみた。布袋さんと言えば腹、その肝心の腹にまばゆいばかりの秋の日が注いでいる。おもしろくないか?おもしろくない。それこそ、布袋さんと言えば腹を思うのだから「布袋の腹」とは言いたくない。

浄智寺や布袋うららか秋うらら

「布袋うららか」は、布袋さんの、どこかのんびりとして何でも許してしまう、といった感じを表現したもの。実際、腹をさするとご利益があるとか、安産だとか、病気が治るなどとは言っていない。単純に「お腹をさすると元気が出る」と、横にある看板に書いてある。まるでアントニオ猪木さんのような、そんなところが「うららか」なのだ。ちなみに「うららか」を辞書で引いてみると、「空が晴れて、日が柔らかくのどかに照っているさま」の他に、「心にわだかまりがなく、おっとりしているさま」という意味もある。そう、浄智寺はどこか「おっとり」しているのだ。

今回は、紅葉にはまだ早かったが、この寺は、紅葉よりも、春、梅の頃とか、初夏の若葉の頃に来た方が風情があるかもしれない。もちろん、平日の人がいないときに。




北鎌倉の紅葉-2・東慶寺(縁切り寺)

縁切り寺の小仏

薄紅葉縁切り寺のささめごと

円覚寺の鎌倉街道をはさんだ斜め向かいに、縁切り寺として名高い東慶寺がある。いかにも尼寺らしく、山門の前の石段の横に、かわいい竜胆の花が咲いていた。
山門は、意外にこじんまりとしている。円覚寺という大きな寺を見た後なのでそう感じるのかもしれない。どこか清潔な感じがする。
有名な割に人が少ない。団体客などはいなくて、若い二人連れや外人が目につく。団体客がいないのは、単純にバスを止める場所がないというだけの理由かもしれない。大声で話す人もなく、ほとんどの人は黙々と歩いている。
山門を入った左手に、小さいながらちょっと趣のある鐘楼がある。年老いた梅が数本あるのだが、ちょっと痛々しい。
右手に本堂を見ながら進むと、松ヶ岡宝蔵、その横にもみじの大木があり、薄く紅葉している。
突き当りが山で、その山影が墓苑になっている。縁切り寺で一番印象に残ったのは、この墓苑。特に青く苔むした岩肌は、独特の表情を見せて素晴らしい。墓苑の入り口の岩肌に、ちょこんとある小さな石仏には、赤い花が供えてあるのだが、その赤と花の大きさが、青い小仏と岩肌に、ぴったりとマッチして、立ち止まらずにいられない。どことなく尼寺ならではの雰囲気が漂っている。

縁切り寺のリンドウ 縁切り寺鐘楼
▲山門石段横の可憐なリンドウの花と、どことなく気品を感じる鐘楼
縁切り寺の紅葉
▲もみじの大木。緑から赤へのやわらかな色のグラデーションに趣がある。
縁切り寺本堂 縁切り寺墓苑
▲東慶寺本堂と墓苑の岩壁。岩壁は一面青い苔で覆われている。

寺全体としては、どことなく雰囲気があり、また、気取りがなく、普通に人が生活していそうな感じがして、好きになれそうな寺だ。人が少ないのもいい。
俳句にするとすれば、この何ともいえず静かで落ち着く感じか。円覚寺では得られない感覚。

ひっそりと縁切り寺は秋の中

またもや、最初はつまらない句。「縁切り寺」という名前だけで六文字もあり、上五や下五には持っていきづらい。さらに季語も入れるとなると、なかなか難しい。「東慶寺」とすれば、五文字なので扱いやすいのだが、これではおそらく、これはどこの寺?となってしまう恐れがある。
「縁切り寺」で中七文字を使い、季語で五文字を使うとすれば、あと残るは五文字。このたった五文字で何が言えるだろうか。

短日や縁切り寺の仏たち

墓苑の雰囲気が印象に残っているので、「仏たち」と置いてみたのだが、「縁切り寺の仏たち」となると、上五にどんな季語を持ってきても、どうも古くなってしまう。寺を新しい感覚で詠むことはできないだろうか。

外人と縁切り寺と薄紅葉

試みに、思いつくキーワードを並べてみたのだが、平凡で面白くない。「薄紅葉」は生かしたいような気がする。あと五文字をどうするか。

薄紅葉縁切り寺のささめごと

境内が非常に静かだということを五文字で表すにはどうすればいいかを考えた。単純に「静かなり」とか言ってしまったのでは、俳句にならない。
この寺に来て、ずっと気になっていたのだが、円覚寺などに比べると、みんななぜかあまり話をしていない。話すときでも囁くように話しているようだ。そこで、突然「ささめ」という言葉がひらめいた。
「ささめ」とは、ひそひそと囁くこと。それから転じて、「ささめごと」といえば、内緒話とか、男女間の語らいを指すようになったらしいのだが、「ささめ雪」という言葉があるように、もともとそれほど悪い言葉ではない。何となく縁切り寺にぴったりの言葉のように思えてきた。




北鎌倉の紅葉-1・円覚寺

円覚寺正続院

小春日の遠き読経や円覚寺

11月22日、突然思い立って、北鎌倉に行った。予定では、箱根か河口湖に行くはずだったのだが、あまりにも天気がよく、車が渋滞しそうなので、電車で行けるところということで、急遽変更したのだ。北鎌倉に行くのは初めて。仕事のロケなどで、大仏や鶴岡八幡宮などには行ったことがあるのだが、北鎌倉にはこれまで用がなかった。もちろんあじさい寺とか縁切り寺など、名前は知っているのだが、あまり興味はなかった。今回、紅葉の写真の候補地として急遽、北鎌倉に決めたのは、ちょうど紅葉の見頃ではないかと思ったことと、一つの寺がだめでも近くにいろいろ寺があるのではないか、と思ったこと。もちろん電車一本で行けるという便利さもある。昔買った鎌倉の観光ガイドブックとカメラ2台、リュックを背負って、総武横須賀線に乗る。
ところが、北鎌倉の駅に着いた途端、北鎌倉を選んだのは間違いであることに気がついた。人が多すぎる。ホームからなかなか外に出られない。そして、周りを見回しても、ほとんど紅葉していないのだ。
来てしまったものはしかたがない。まず、駅のすぐ傍の円覚寺に入ってみる。思っていたよりも広い。もっと山の中にあるのかと思っていたのだが、境内はなんとなく殺風景で、三門などの建物が目立つ。ところどころ紅葉した木もあるものの、紅葉狩りというにはまだ早い感じだ。色づき始め、季語で言えば「薄紅葉」といったところ。
興味深い建物などもあったのだが、写真を撮っても、人を消すことはできず、ごちゃごちゃした写真しか撮れない。また、天気が良すぎて、コントラストが強すぎ、うまく写ってくれない。
人の流れに沿って奥の方まで行くと、人が渋滞している。門のところで立ち入り禁止になっていて、そこでみんな引き返している。ガイドブックを見ると「正続院」と書いてある。正面にそれほど大きくもない建物があり、向かって右横に、数棟の建物が見える。門の中は庭になっていて、誰もいない。どの棟かわからないが、おそらく数人による読経の声が聞こえる。
その奥、突当たりに黄梅庵という庵があり、野の花で有名らしいのだが、もう花はなく、コムラサキなどの木の実が少しあるだけだ。庭には木彫りの観音様のようなものがあり、ちょっと興味をひかれたのだが、それよりも、軒下の古い梵鐘が気になった。どうして、何のためにここにこの鐘があるのか。この後行った東慶寺(縁切り寺)にも、同じような大きさの鐘が、同じように軒下に吊るしてあった。尼さんと何か関係があるのだろうか。

円覚寺正続院山門前 円覚寺黄梅庵の梵鐘
▲円覚寺正続院山門前の人だかりと、なぜか気になる円覚寺黄梅庵の梵鐘。

国宝の鐘が、結構疲れる石段を登った所にある。鐘楼はかなり風化して、貫禄があり、年代を感じさせるが、梵鐘そのものは、どこが国宝なのか、その良さがよくわからない。
その鐘楼のところは、見晴らしがきき、鎌倉の山が見渡せ、その先には富士山も見えている。
一時間以上歩きまわったのだが、いい写真は撮れなかった。紅葉がメインのはずが、建物に目が向いてしまい、パンフレットの写真のような写真ばかり撮ってしまった。

円覚寺鐘楼からの眺望 円覚寺の紅葉
▲円覚寺鐘楼からの眺望とまだ色づき初めの紅葉。

さて俳句だが、晩秋の鎌倉の寺めぐりなのだから、どこの寺の晩秋の風情なのかはっきりさせた方がいい。そこをコンセプトにこのシリーズを作ることにした。
この寺で一番印象に残ったのは、あの途切れることなく殷殷と流れる読経の声。そこを俳句にしたい。

円覚寺読経澄みたる一ところ

円覚寺は、鎌倉でも大きな寺のようだが、観光地化して他人の波が押し寄せている。しかし、この一角には、まだ人を拒む厳しい世界が残っている。といった意味。「澄みたる」で晩秋を表そうとしているのだが、その感じが全くない。コンセプトから外れてしまったようだ。

薄紅葉読経途切れぬ円覚寺

「薄紅葉」は、まあいいとして、「読経途切れぬ」はどうか。当たり前すぎないか?

薄紅葉読経波打つ円覚寺

「読経波打つ」は、時々読経が大きくなったり小さくなったりすることを例えたのだが、強すぎて「薄紅葉」と合わない。全体に調和していない。

晩秋の遠き読経や円覚寺

どこから聞こえてくるのかよくわからない、遠い読経の声。これはちょっといいかもしれない。「晩秋」は、ちょっとさびしく、「遠き読経」に合いすぎているのが平凡か。

小春日の遠き読経や円覚寺

季語を「小春日」に変えたら、ぱっと明るくなった。どこかあっけらかんとしている円覚寺の印象に合っているかもしれない。




花貫渓谷の紅葉

吊り橋と紅葉

吊り橋や小さき滝の紅葉越し

これは、去年の11月17日に撮影した茨城県の花貫渓谷。紅葉の俳句は、世の中に数多あって、いまさら何か新しいことを言えるとは思えないが、せっかくの紅葉の季節に、紅葉の一つもないのはさびしいと思いなおし、作ってみることにした。
私の場合、紅葉を見てもあまり感動がない。きれいだとは思うが、きれい以上のものではないのだ。これまで一番きれいだと思った紅葉は、大学時代、ぷらっと、京都に行ったついでに、夜行鈍行で広島まで足を伸ばして見た、厳島神社の紅葉。全山真っ赤に紅葉して、これは素晴らしかったが、それで何か心が動かされるといったことはなかった。
この、花貫渓谷の紅葉も、ちょうど見ごろできれいなのだが、何というか、人が多すぎて、紅葉を愛でるというよりも、紅葉を見させられている、という感じだ。渓谷の入り口では、村の人たちが、テントを張って、そばとかけんちん汁などを売っている。寒いということもあって、それがまたよく売れている。私もけんちん汁を頼んでしまった。

花貫渓谷
▲花貫渓谷入口付近。この左後側にテント張りのお休み処がある。

この渓谷の見せ場は、10分ほど歩いた下流にある吊り橋だ。つり橋の下に、小さな滝があり、その周りにイロハモミジがあって、真っ赤に紅葉する。絵葉書のような景色だ。
吊り橋を渡った先は、ちょっとした空地があるだけ、行き止まりで、また、戻らなければならない。おそらく観光用に作られた吊り橋だ。この日は人が多く、吊り橋もごったがえして、かなり揺れる。吊り橋の上からの撮影ポイントがあるのだが、橋が常に揺れているため、手ぶれ写真の山ができてしまった。

小さな滝 吊り橋
▲吊り橋の下にある小さな滝とごったがえす吊り橋

紅葉の時期はどこに行ってもこんな感じで人手が多く、うんざりさせられる。近所の公園の紅葉の方が、よほどきれいに感じる。などと言っていては俳句が作れなくなるので、何か新しいポイントを探さなくてはならない。

吊り橋は折り返すだけ紅葉渓

行き止まりになっている吊り橋に目をつけてみたのだが、ちょっと不平不満を述べているだけになってしまった。

つり橋の先に道なし紅葉谷

これもつまらない。説明的なのに、風景が全く見えてこないし、詩的情緒もない。せっかく紅葉を詠うのだから、もっと楽しいとか情景の見えるような俳句にしたい。

吊り橋や眼下の小滝紅葉越し

少しは景色が見えてきた。吊り橋の下に小さな滝があって、それが紅葉越しに見える、ということなのだが、これって、ただの叙述ではないのか。切れ字の「や」があるから、俳句と言えば俳句なのだが、「眼下の小滝」は、いかにも苦しい。

吊り橋や小さき滝の紅葉越し

「眼下」は、今、作者は吊り橋の上にいる、ということを言いたかったのだが、説明的すぎるので削除して、「小さき滝」だけにした。小さな滝が紅葉越しに見える。そこには吊り橋もある。というだけで、十分情緒は感じられる。(か?)
いずれにしても、狙いどころが古く、どこかにいくらでもありそうな俳句になってしまった。




寝ころぶ月

寝ころぶ月

寝転がる二十日の月に大くしゃみ

昨日の夜、10時過ぎに帰宅したのだが、駅からの帰り道、歩道橋から見た月は、見とれるほどきれいだった。満月でもなく弦月でもない、ちょうどその中間のふっくらとした月が、東北東の空の低い所、遠い団地の明かりのすぐ上に、びっくりするほど大きく横たわっている。空には鱗雲があって、月の周りに白く輝き、時折、月を横切って風情を出している。カメラを持っていないのが悔しい。
家に帰って、妻にそのことを話すと、妻はすでに知っていた。キッチンの窓の正面に、その月が見えるのだ。しばらく眺めていたのだが、うっかり写真に撮ることを忘れてしまった。
調べてみると、昨日は旧暦10月20日、二十日の月で、月の出は21時50分となっている。そう言えば先週は満月だった。その後は曇りと雨で、月を見ていなかったのだ。
俳句でも作ってみようかと、ひねった句。

水洟や二十日の月の横たわる

喉の炎症がひどくなったのか、時折、咳が出て、鼻水も一緒に出ることが多くなった。鼻の粘膜もやられているらしく、鼻の中が乾燥し、鼻くそがかさぶたのようになって、無理に取ると血が出たりする。くしゃみも出るので風邪なのかもしれない。
「水洟や」は、ちょうどその時鼻水が出てきたので、この月と組み合わせたら面白いと思い、すぐに思い浮かんだ。メモっておいたものを、今朝見直してみると、あんまりおもしろくない。「水洟」に「や」は、どうも似合わないようだ。

横たわる二十日の月や水っぱな

順番を変えてみた。が、どうも「二十日の月」と「水っぱな」がつながらない。喧嘩をしている感じがする。

横たわる二十日の月や冬近し

としてみたが、これだと平凡すぎる。
ここで気になることが出てきた。この季語はなんだろうか。「月」は、基本的に秋の季語で、「二十日月」も秋の季語ということになっている。しかし、この月が出ている旧暦10月20日は、暦の上では冬だ。東京では、これから本格的な紅葉が始まることを思えば、感覚的には晩秋なのだ。
しかし、立冬も過ぎているので、約束事から言えば冬でなければならない。秋なのか冬なのか、悩ましいところだが、少なくとも「二十日の月や冬近し」では、おかしなことになってしまう。この「二十日の月」が秋のもの(先月の二十日月)であれば、「冬近し」という表現はないし、季語が重なってしまう。冬の二十日月にするべきなのだ。

寝転がる二十日の月や咳やまず

「横たわる」では平凡なので、「寝転がる」にしてみた。実際、この二十日の月というものは、寝転がっているように見える。ちょっところんとしてユーモラスなのだ。また、「二十日月」を季語とせず、季節は冬であることにして、別に「咳」を季語にした。
「咳やまず」は、落ち着かない。ここは体言で止めたい感じがする。

寝転がる二十日の月に大くしゃみ

中七の「や」を「に」に変え、「咳やまず」を「大くしゃみ」にすることで、ぶつぶつ唐突に切れる感じをなくしたつもり。
ちょっといじりすぎたので、この辺で少し時間をおいた方がいい。
この句に付ける写真がない。月にススキということでとりあえずこんな写真でがまん。

●11月19日/俳句修正

今朝になって見直してみると、やはり変だ。「二十日の月」に対して、「くしゃみ」とか「咳」といった取り合わせは、どうも違和感があって落ち着かない。相乗効果どころか相殺している。ぎくしゃくした感じはそこから来ているようだ。
また、「寝転がる」と「二十日の月」という表現は、もたついていて切れが悪い。「寝ころぶ二十日月」でいいのではないか。すっきりして字数も少なくなる。そうなるとこの上が問題だ。

木枯らしやビルに寝ころぶ二十日月

「木枯らしや」は、季語を入れるためのウソなのだが、この方が素直に受け入れられる。ただ、「ビルに寝ころぶ」は稚拙だ。

木枯らしや街を転がる二十日月

この方がおもしろくないだろうか。シュールな感じがすると同時に、二十日月のころころとしたちょっとユーモラスな雰囲気が出ているように感じる。
ただ、気になるところは、「二十日月」と「木枯らし」。「二十日月」と言えば、どうしても秋を思ってしまう。そこに「木枯らし」という言葉が入った時に、違和感はないだろうか。もしかしたら、秋の句にしたほうがすっきりするかも知れない。

寝転がる二十日の月に大くしゃみ

木枯らしや街を転がる二十日月

二つ並べてみてどうか。迷うところだ。どちらも言いたいのは「二十日月」なのだから、どちらにその二十日月の面白さが表現されているかということになる。しばし保留。









憂鬱な週末

柿の木

柿たわわ踏切の先酒肆あらむ

この週末は、土曜日が雨、日曜日も朝から曇りで、山の紅葉はそろそろ終わる頃だというのに、どこにも出かけられず、家のテレビで東京国際マラソンを見ていた。渋井が失速して、憂鬱な週末。
その前の週末も出かけられなかったので、写真がない。去年の写真を見ていたら、11月17日は、茨城県の花貫渓谷に行っていた。ちょうど紅葉が見頃の感じだが、いい写真がないし、紅葉は俳句にならない。もう出尽くしているのだ。
その前の週末は写真がない。おそらく天気がわるかったのか。さらにその前の週、写真のデータでは10月28日に、千葉の里山に行っている。そう言えば、ぷらっと電車に乗って、適当に電車を降り、山の中を歩きまわっていたことを思い出した。日は短かく、腹も減ってくる。山の中なので食事もできず、とにかく街に出ようと、検討をつけて山を下る。あさ、電車を降りた街とは違う、見たこともない街に出た。踏切があり、そばに大きな柿の木がある。誰も取る人がいないのか、たわわに実っている。
朝から、食事もしないで歩き詰めなので、酒の飲めるところでゆっくりしたい。釣りや山歩きの後の、駅前の居酒屋で飲む一杯、その一時は、こたえられない至福の時なのだ。

踏切
▲柿の木の横にある踏切。踏切を越すと駅に出る。

この街は、おそらく都心への通勤圏内で、新興住宅地になっていると思われるので、一杯飲める店は多いのではないかと思い、探し始めたのだが、居酒屋どころか、コンビニさえない。駅があって大通りもあるのだが、不動産屋とか、自転車屋とかがぱらぱらとあるだけ。酒なんてとんでもない、食事にもありつけなかったことを思い出してしまった。やたらとたわわに実った柿が印象に残っている。

柿たわわさあ食事時山帰り

まずは、ストレートに。いつものことだが、イメージとか状況を言葉にしてみて、俳句世界へのとっかかりにする。そうしないと俳句の世界に入っていけないのだ。

柿たわわ駅前通り酒肆探す

これもストレートで、詩になっていない。状況を説明しているだけだ。「柿たわわ」は、印象深く、どことなく、夕暮れを感じるので残すとして、「駅前通り」はだめだ。「酒肆探す」も説明的だ。

柿たわわ踏切越せば酒恋いし

「踏切」には何か感じる。その踏切を越せば、人がいて、駅があり居酒屋がある。「踏切」という言葉には、そうしたイメージがあるのではないか。人の生活が感じられるのだ。「酒恋いし」は、歌謡曲的なので、ちょっと気取った、先の「酒肆」を使いたい。

柿たわわ踏切あれば酒肆がある

踏切があるのだから、酒を飲ませる店があるはずだ。「あれば、ある」という言葉の遊びを入れてみたのだが、ちょっと軽かった。理屈になっている。

柿たわわ踏切の先酒肆がある

まあ、こんなところか。何もない所から作った割には、それらしくまとまったような気がする。「柿たわわ踏切先の酒肆灯り」とでもすれば、もっと状況がはっきりして、すっきりとするのだが、陳腐になりそうだ。

●11月18日/俳句修正

今日、この俳句を見直してみて、まったく稚拙でつまらなく感じた。問題は「酒肆がある」にある。実際には酒肆はなかったので、意味的にも違うのだが、それはまあいいとして、この散文的断定に違和感があるのだ。

柿たわわ踏切の先酒肆あらむ

この方が意味的にも合っているし、すっきりとなじむ。「柿たわわ」とか「酒肆」という言葉が古いということもあって、ここは文語の方が似合う。全体に古臭くなるのは仕方ないか。




なぜ俳句か

代官山の雑貨屋

冬支度自問自答す俳句など

調べてみると、俳句を始めたのが、去年の11月21日だった。ほぼ一年経ったことになる。一日一句一写真を目標にしてきて、数えてみたら、約300写真、俳句は、途中一写真につき数句、だらだらと公開してしまったので、いつのまにか400句近くになっていた。
途中、苦しくて、何度もやめようかと思った。俳句を作っても、何の役にも立たないばかりか、かえって、ストレスはたまり、仕事にさし障る。いくら作っても、いいのか悪いのかまったくわからず、誰も褒めてもくれず、家族にさえ、鼻であしらわれ、不眠になり、挙句の果てにがんになってしまった。俳句に何かいいことがあるだろうか。百害あって一利なしだ。
それなのになぜ、俳句なのか。なぜ、これほどまでに強迫観念にかられるのか。俳句を休むことが悪でもあるかように、作り続けてきた。やめたっていいのだ。が、やめなかった。
やめないで済んだのは、写真と俳句を組み合わせたことが一番の理由のようだ。写真は趣味なので、暇があれば、積極的に撮影に出かけたい方だ。すると写真がいろいろ貯まってしまう。別に誰かに見せるわけでもないので、貯めておいてもしょうがない。俳句でも付けるか、ということになる。
また、電車の中などで、ひょいと俳句らしいものができたりする。するとそれにあった写真が欲しくなり、週末に撮影に出かけることになる。その繰り返しが、おそらく、ここまで続いた理由なのだ。
俳句が好きなのかどうかわからない。特に俳句の結社とかに入っているわけでもないし、まわりに俳句を作っている人もいない。ただ、自分で作った句を、自分でくそみそにけなして喜んでいる。弟子でもあり師匠でもある。ただし、それでは一人将棋のようなもので、詰むことは最初からわかっていて、おもしろくもないし、決して上達することはない。
などとつまらないことを考えていたら、一句できてしまった。

小春日や一人俳句のつまらなさ

いかにもつまらなさそうで、どうでもいい句だが、「一人俳句」という言葉がひっかかる。何かできないだろうか。

自問自答一人俳句の小春かな

「自問自答」もどことなく気に入った。が、「小春かな」は、季語としてどうか。「自問自答」という言葉のニュアンスとは、程遠いような気がする。何事もなくのんびりした感じが強すぎる。「自問自答」といっても、まあ、その程度のことではあるのだが。

自問自答一人俳句や冬支度

季語を「冬支度」にしてみたら、少ししまった感じがする。ただ、こうやって「自問自答」と「一人俳句」という言葉が並ぶと、意味が重複している感じが強い。というか、「自問自答」という言葉が「一人俳句」を、馬から落馬的に説明してしまっている。「自問自答」があれば、「一人」は不要だ。上五が字余りになっているのも気になる。

冬支度自問自答す俳句など

ちょっと弱くなったが、「俳句など」と、自虐的にごまかしたところがいい、といえばいい。

さて、俳句はできたが写真がない。どこかシュールな写真とか、ぶっ飛んでいる写真が欲しいところだ。先日、代官山で撮った写真を見直してみる。この爬虫類のおばさんなんかどうだ。こんな時でないと出番がない。




恵比寿ガーデンにて

恵比寿ガーデン野外音楽堂

酒断てば恵比寿ガーデンそぞろ寒

代官山から恵比寿まで歩いて、恵比寿の有名なラーメン屋でラーメンを食べた。癌になって初めてのラーメンだが、熱いのはだめ、コショウもかけられず、であまりおいしいと感じない。喉はなかなか治らないのだ。
少し時間があったので、恵比寿ガーデンの写真美術館に行ってみる。ちょうど公募展をやっていて、なかなかおもしろかったのだが、何せ点数が多すぎて疲れた。帰りに、広場に出ると、風に乗ってオペラのような歌が聞こえてきた。野外音楽堂でコンサートをやっているようだ。
カメラと交換レンズの入ったリュックが重い。音楽堂の近くのベンチにぐったりと腰をかけながら、聞くともなしに歌を聴いていたのだが、歌が終わっても、拍手がほとんどない。周りを見回してみると、観衆はほとんどいなくて、数人の関係者だけが拍手をしていた。
冷たい風が吹き抜けて寒い上に、この何ともわびしい光景を見るに堪えないので、立ちがる。恵比寿ガーデンには昔、何度か来たことがあるが、このような音楽堂はなかった。たしか電車の車庫後を利用して、バーベキューを食べさせる大きなビアガーデンだった頃のこと。恵比寿と言えば、やはりビールだ。

秋寂びて風泣く野外音楽堂

古い。「風泣く」はないだろう。

リュック重く秋寂ぶ野外音楽堂

これも古い感じがするのは、「秋寂ぶ」という季語のせいかもしれない。また、「野外音楽堂」という言葉は長すぎる。i言う必要があるか?
ここで何を言いたいのか。リュックが重いことか、秋の寂しさか、野外音楽堂なのか、はっきりさせる必要がある。
「リュックが重い」のは、朝から歩きづめで疲れているからだし、それはそれでひとつ言いたいことだ。また、「野外音楽堂」は、暮れかかった秋の日を浴びて、冷たい風が吹き抜ける中、誰も聞いていない歌を一生懸命歌っている、というその何とも言えない寂しい風情に惹かれたからだ。が、本当にそうしたことを俳句にしたいのだろうか。
恵比寿と言えばビール。コンサートを聴きに来たわけではない。できれば、ここでビールをぎゅっと飲みたいところなのだが、酒は禁止されていて飲めない。この場面では、そうした悔しさの方が強い。さびしいコンサートなどは、実はどうでもいいのではないか?

気もそぞろ釣瓶落としのコンサート

もう日が落ちようとしている中、コンサートなどはどっちでもいい。通行人は、酒を飲みたい気分で気もそぞろなのだ。「気もそぞろ」は自分のことでもあり、周りの通行人のことでもある。
ただ、考えてみると、これでは何が何だかわからないのではないだろうか。「釣瓶落としのコンサート」は、俳句に慣れたひとであれば、なんとなくわかる。しかし、なぜ「気もそぞろ」なのか。これだけではわからない。

酒断てば恵比寿ガーデンそぞろ寒

これなら誰でもわかる。酒が飲めないのに恵比寿ガーデンに来ているなんて、秋の風がよけい身にしみる、といったところだ。川柳のような句だが、他の句に比べればまだましかもしれない。




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