旅の終わり/4-旅の終わりに

たそがれの遊歩道

冬茜失せゆくものをつらつらと

この正月の南伊豆の旅シリーズを、ずるずると二月中旬まで引っ張ってしまったので、この辺で終わりにしたい。
随分暗くなって、もう帰ろうとした頃になって、観光バスが到着し、中から例によっておばさん、おじさんがどやどやと出てきた。夕陽を見に来たのが、どうやら渋滞に巻き込まれて遅くなったものらしい。空にはまだうっすらと茜色が残っていて、富士山もかろうじて見える。ひとしきりフラッシュがたかれ、賑やかになったと思うと、すぐ集合の合図がかかり、またバスに乗り込んでどこかに行ってしまった。海岸の遊歩道に残されたのは、数本のペットボトル。どこか虚しさを感じる。憤りというのではなく、哀愁とでも言うか、写真を撮ってみると、それがよくわかる。

愚かさの取り残されて冬茜

団体旅行の愚かさをしみじみと感じながら、また、自分のこの旅の愚かさをも感じている。結局、この旅は、このおばさんたちの旅と、何も変わらないのではないか。おばさんたちは、さっさと帰ってしまったからわからないかもしれないが、自分は茜空の下に残された愚かさを見ている。たまらない。
この句には、感情が出すぎていて、耐えられない。

つらつらと失せゆくものの冬茜

この旅のこと、病気のこと、昔のこと。消えていくもの、失くしたものをつらつらと思いだしてみる。失くしたものを悔やんでもしょうがない。消えたものを追いかけるつもりもない。ただ、なんとなくけだるい。
そのけだるさはわかるが、もたもたとし過ぎているので、

冬茜失せゆくもののつらつらと

順番を変えてみる。最後の締めの句としてはちょっとさびしいが、旅の終わりの雰囲気は出ている。


<090213/推敲>
冬茜失せゆくもののつらつらと」は非常にわかりづらいので、「失せゆくものの」を「失せゆくものを」に変更してみた。

冬茜失せゆくものをつらつらと

説明的になってしまったが、わかりやすい。






旅の終わり/3-冬の渚

夕暮れの千本松公園海岸

冬の暮たゆたふ波のごと脆く

千本松公園の海は、風もなくおだやかに暮れていく。波は緩やかにうねり、波打ち際で脆く崩れる。まだ残る冬の茜が、一時渚を輝かせ、やがて闇が訪れる。闇の訪れとともに旅は終わり、また、日常が始まる。
このまま旅を続けていたい気持ちはあっても、いつまでも逃げているわけにはいかない。日常に帰るしかないのだ。

海暮れて帰るしかなし冬の旅

「帰るしかなし」は、単なる感傷でしかなく、なぜ帰るしかないのか共感できない。うわべの感情ではなく、もっと深い悲しみのようなものを表現できないか。

冬暮れて逃げられもせず帰りなん

これでは、感情がストレートに出すぎていて、かえって引いてしまう。もっとさらっと、さりげなく。

風落ちてしばしたゆたふ冬の海

情景はわかるとしても、句に力がなく常識的。というか、こういう句ならどこにでもある。情緒ではなく、もっと意志を持った言葉で表現したいのだが、かといって感情的にならない感覚的な表現。

冬暮れてたゆたふものの脆さかな

「たゆたふもの」は、「波」とか「心」とかはっきりと表現しないで、曖昧にしておくことで余韻を残そうとしているのだが、そうしたずるい考えが見え見えで、嫌味になっている。「脆さかな」と断定しているのも変だ。

冬暮れてたゆたふ波のごと脆し

どこかちぐはぐで、しかもしゃべり過ぎのように感じるのはなぜか。動詞などを多用し過ぎているからか。

冬の暮たゆたふ波のごと脆く

上五を体言で軽く切って、最後を「脆く」と流して見た。その方がリズムが良く余韻も残るような気がしたからなのだが、どうも思ったようにはいかなかったようだ。これでは、「冬の暮」が「脆い」ととられてもおかしくない。切れが弱いのか、あるいは根本的にダメなのかもしれない。





旅の終わり/2-たそがれの海と月

たそがれの海と月

混沌の海や寒月細く落つ

たそがれ時の海と月を、同時に一枚の写真にしようと思うと、どうしても縦長の写真にならざるを得ない。広角レンズで撮影しているため、月が小さくなってしまった。左上に小さく写っているのが月である。
この日の月を調べてみると、月齢が5.6日、静岡での月の出が10:04、月の入りが22:06となっている。この写真を撮った時間が17:24となっているので、この月は、あと5時間弱で海に落ちることになる。

日が海に沈む寸前 海に落ちていく冬の三日月
▲左:海に沈む直前の蜃気楼のような夕日。右:日が沈んだ西の空にかかる冬の月。

手持ちの望遠で月を撮るのは至難の業だが、案の定、手ぶれ防止装置の付いているカメラでも、ほとんどは手ぶれを起こして使い物にならない。先の俳写の写真も、同じ時間帯に撮影しているため、ほとんどは手ぶれを起こしている。この太陽が沈む直前の写真は、ある程度明るさがあったにもかかわらず、焦って撮影したこともあって、かなりぶれていることがわかる。
この写真は、ワイドで撮っていることもあり、どことなく雰囲気があるので、俳句をつけてみることした。

細き月冴えて夕日に間に合わず

夕日を見るつもりが間に合わず、月を見ることになってしまった、ということを言いたかったのだが、事情を知らない人には、何のことだかわからない。月が夕日に間に合わないようにしかとれない。

宵明し寒月細し海さびし

まだ、太陽が沈んだばかりで空が明るいのに、その夕焼けの西空に月が出ている。このおもしろさをまず言いたい。それと、それを見ている自分の気持ちも言いたい、と欲張った結果が、こんな句になった。ちょっと遊んでいるだけのつまらない句だ。

混沌と寒月細し宵の浜

さんざん悩んだ末に、上五に「混沌と」と置いてみた。この「混沌と」にあまり意味はない。海も空も富士山も、道を行く人も、自分の心も仕事も未来も、すべてはこのマジックアワーの中で混沌としている。そうした感覚を表わした言葉だ。これは何となく言えているような気がするが、「宵の浜」がだめだ。場所と時間帯を言いたかったので、こんな言葉を使ってしまったが、単なる状況説明になってしまったようだ。

混沌の海や寒月細く落つ

「混沌の海や」と、何も説明しないで切ってしまう。この突き放した感じがいいかもしれない。最後の「落つ」で、おおよその月齢がわかる。混沌の海に細い冬の月が落ちていくのだ。壮大な天空のドラマが感じられないだろうか。
混沌と寒月細く海に落つ」とした方がいいのではないかと、ふといま思った。どうなんだろうか。





旅の終わり/1-沼津港のたそがれ

沼津港のたそがれ

冬の海何か終りて始まりぬ

風雅を求めて来たはずの南伊豆の旅が、家族連れとは言え、いつの間にか観光旅行になってしまった。どこか物足りない。妻はもう一泊したいようだが、子供たちはもう飽きたようだ。すぐ仕事が待っている。旅の終わりは、有名な(らしい)、沼津の千本松公園の夕日で締めくくることにした。
浄蓮の滝を出たのが二時過ぎ、沼津港の夕日には充分間に合うはずだった。ところが、沼津に近付くに従って道路が混みだし、正面に富士山が見え始めた頃は、もう夕暮れ近かった。それでもカーナビの到着予想時間を見る限りでは、間に合うことになっていた。それが、沼津市内に入ると渋滞で全く動かなくなり、沼津港が見えてきたときには、もう、夕日が沈みかけていた。
公園の駐車場もいっぱいで、何とか駐車して海際に出た時には、もう日はほとんど沈んでいたのだが、わずかに、まるで蜃気楼のように太陽の切れ端が水平線に残っている。あと10分早ければ、見事な夕日を見ることができたと思うと、ちょっと残念な気もする。
この千本松公園は、海岸は砂浜で、海岸沿いに土手があり遊歩道になっている、その土手の外側には、松の木がたくさん生えていて、公園になっているようだ。土手の上からは、海と富士山を見ることができる。
日は沈んだとはいえ、まだたそがれ時で、周囲は明るい。富士山は絶妙な光り具合で、なかなか趣がある。空も何とも言えない光で、水平線は赤く夕焼け、海は残光できらきらと輝いている。帰ってきたのか出ていくのか、漁船が一艘、水面をきらめかせてゆっくりと横切っていく。空は黒く沈んで、左上方の低い位置に、ちょっと太った三日月というか、月齢5日くらいの月がかかっている。旅の終わりにふさわしい光景だ。

夕映えの富士山 沼津市内の渋滞と富士山
▲左:湯河原あたりの車中から見た富士山。右:渋滞する沼津市内から見た富士山。

沼津港の落日 たそがれの富士山
▲左:車窓から見た沼津港の夕日。右:千本松公園から見たたそがれの富士山。


充たされぬ旅の終わりか冬の海

この、どこか充たされない気持ちをそのまま表現してみた。しかし、この「充たされぬ」がどうもいけないようだ。感覚的なことばというよりは、感情的な言葉になっている。詩になっていないのだ。

残光の中に終えたり冬の旅

これは何を言いたいのだろうか。残光がやがては消えるように、この旅もまもなく終わろうとしている。わびしいことよ。といったところか。なんとつまらない、意味のない俳句か。
今は新年を迎えたばかり、その新年に、思いつきで行き当たりばったりの旅に出て、いま、その旅も終わろうとしている。旅の終わりの舞台は、おあつらえ向きの夕日の海だ。何か感じないわけがない。

正月の終りて何か始まりぬ

旅が終わったということは、私の中では、正月も終わったということ。しかし、終わりは何かの始まりであり、その何かはすでに始まっている。夕日は終わりの象徴であるが、この漁船はその始まりを象徴するイメージだ。
ただ、「正月の終りて」では、あまりにも説明的すぎて余韻がない。

冬の海何か終りて始まりぬ

で、どうだろうか。「何か」というのが、逃げのようでいやなのだが、いろいろ想像できていい、ということも言える。ちょっとずるい俳句だ。





南伊豆の正月/5-浄蓮の滝

浄蓮の滝

冬ざるる浄蓮の滝肩の先

河津七滝の後、食事をしようと思って湯ヶ島まで来たが、下調べもしていないので行きあたりばったり。カーナビで調べたお店は、浄蓮の滝のまん前にある猪鍋屋さん。伊豆一番の観光地とあって非常に混んでいる。変なところに来てしまったと後悔しながらも、家族は浄蓮の滝が見られると喜んでいる。
浄蓮の滝は、石川さゆりの演歌「天城越え」で一躍有名になってしまったが、その前は、松本清張の小説「天城越え」の舞台としても知られていた。私は40年ほど前、社員旅行で来たことがあり、あまり感動はしなかったのだが、滝壺で釣りをしている人がいたことを、なぜか鮮明に覚えている。
渓は意外に深く暗い。渓に降りる石段は、観光客であふれている。渓に降りたところに小さなワサビ田とお土産屋があり、その周りを回る感じで滝を眺めるようになっている。うまく考えてあるものだ。
渓流に降りることもでき、釣竿を出している人が数人いる。よく見れば、釣り堀になっていて、お土産屋には渓流釣りの竿や餌などが用意してあり、30分500円とかで貸している。商魂たくましいというかなんというか。この寒さの中、こんな観光地に来てまで釣りをしようという人がいるからおもしろい。
肝心の滝は、人だかりでゆっくり写真に撮ることもままならない。その上、渓は暗く、手ぶれ写真を量産してしまった。
せっかく、日本中のだれもが知っているのではないかと思われる滝に来たのだから、俳句の一句でもひねりたいのだが、もう、滝の俳句には飽きた。出てこない。

浄蓮の滝も虚しや冬の旅

愚かにも浄蓮の滝寒き旅


などと作ってみるも、全然おもしろくない。相手が、夏の季語の滝なので、それをこの冬場にどう表現するか、季語にも苦労する。いっそ、演歌のパロディーのような句を作ってみようかと考えた。

冬滝や石川さゆり天城越え

としてみたが、これでは言葉を羅列しただけ。

冬滝やつい口遊む天城越え

これもわざとらしくてだめだ。「天城越え」の歌詞を思い出してみる。

  ・・・・浄蓮の滝
  舞い上がり揺れ堕ちる肩のむこうに
  あなた・・・山が燃える

たしかこんな歌詞だ。この世界をそのまま俳句にしたらどうなるか。

浄蓮の滝情念の冬ざるる

これで石川さゆりの演歌を思い出した人にはわかるかもしれないが、これでは何のことかわからない。「情念の冬ざるる」なんか捨てがたいのだが。

冬ざれや浄蓮の滝恨み節

よけい何だかわからなくなった。

冬ざれや浄蓮の滝肩の先

ちょっとやっていいのか悪いのかわからないのだが、歌詞にある「肩のむこう」を取り込んでみた。意識的に「滝」と韻を踏んで「肩の先」としてみる。どこか艶っぽくなってドラマが感じられるのは私だけだろうか。リズムもよく、まあまあだと思うのだが、中七も下五も体言で止めているのに、その上「や」という強烈な切れ字を使うのはどうか。

冬ざるる浄蓮の滝肩の先

この句から演歌「天城越え」を連想してもらえれば、成功。





南伊豆の正月/4-河津七滝巡り(5)

さびしきもの

行く路のさびしきものよ冬日陰

日の当たるきらめくものを俳句にしたのだから、日陰のさびしきものたちも俳句にしないわけにはいかない、などと勝手に思いつつ考えていたのだが、なかなか句が思いつかない。それに、日陰で望遠で撮った写真は、ほとんど手ぶれを起こしていて使い物にならない。
ふと、「きらめくもの」の句と、まったく対称的に「さびしきもの」という句を作ったらおもしろいのではないかと考えた。都合のいいことに、「冬日向」の季語に対する対称として「冬日陰」という季語がある。あとは簡単、ただ置き換えただけだ。写真もわざとぶれぶれの烏瓜の写真を選んで見た。
先の「きらめくもの」の写真と並べてみると、むしろこちらの方が迫力がある。俳句もこちらの方がいいかもしれない。





南伊豆の正月/4-河津七滝巡り(4)

きらめくもの

行く路のきらめくものよ冬日向

一月とはいえ、伊豆の南端はさすがに暖かいのだろう。ところどころ青い草や紅葉なども残っていて、あまり冬という感じはしない。山の斜面を見ていくと、蔓にぶら下がった烏瓜や何やらわからない赤い小さな実、日当りのいいところでは、冬だというのになぜか木苺の実などが見つかる。
おかしなもので、日の当る所にあるものは、枯れたガクアジサイでさえも、どこかきらきらと輝いて見える。逆に、日陰にある烏瓜などは、赤い色をしているにもかかわらず、どこか寂しげだ。

木苺の実 枯れたガクアジサイの花
▲左:冬には珍しい木苺の実。右:枯れたガクアジサイの花。

この写真の赤い実は、蔓草にぶら下がっているので、草の実であることは間違いない。何の実か、見たことはあるのだが思い出さない。ただ、こんなちょっとしぼんだ小さな草の実でも、日のあたる場所にあれば、輝いて、心をときめかしてくれる。

冬山路ときめくものに日のあたる

「ときめくものに日のあたる」というのは、ロジックとして変に感じるが、実感としては当たっている。日が当たっているから心ときめくのではなく、ときめくものには、なぜかいつも日が当たっている、ということ。
ただ、この場合、「ときめくもの」という表現にはちょっと違和感がある。「ときめくもの」だと、自分の心の動きを表現することになるが、この場合は、赤い草の実そのものが、自ずからきらきら輝いていなければならない。

冬山路きらめくものに日のあたる

「ときめくもの」を「きらめくもの」に変えてみる。おそらくこちらの方がイメージに合っているが、今度は「冬山路」が気になってきた。季語にこだわりすぎて不自然だ。

天城渓きらめくものは冬日向

「きらめくものは冬日向」はいいとして、「天城渓」は苦しい。

山道やきらめくものは冬日向

さらっと「山道や」にしてみたが、平凡になりすぎた。何か象徴的な言葉はないか。

行く路のきらめくものは冬日向

「行く路」が、もろに「人生行路」を思わせて、嫌味になってしまったか?


<090203/推敲>
一夜明けてみると、この句も平凡な句に見えてきた。意図したところではあるのだが、散文的で説明的、さらっと何の引っかかりもないところが気に入らない。詩になっていないのだろう。

行く路のきらめくものよ冬日向

「は」を「よ」として、下五の「冬日向」とはっきり切り離したらどうだろうか。その方が感動がよく伝わるし、「冬日向」も生きてくるように思う。
次の句、「行く路のさびしきものは冬日陰も同様に、

行く路のさびしきものよ冬日陰

とする。





南伊豆の正月/4-河津七滝巡り(3)

三椏の花

三椏や何か言ひたしさびしきか

先の滝の句、二句、どうも気に入らないので、今日はもう一句追加することにした。観光地を詠むのはどうも苦手、常套句しか浮かんでこない。
七滝を見終わって、この河津川を戻ってくる途中、やっと滝のことから頭が離れ、周りを見回す余裕が出てきた。よく見れば、天城連山から流れ出すこの川は、なかなか趣がある。観光客がいなければ、鄙びた山村の風景なのだ。烏瓜やら、何かわからない赤い木の実やら、椿が盛りで、川っぷちの日陰には、三椏の黄色い花も咲き始めている。

三椏や天城の渓はさびしかり

日陰に咲く三椏の花を見て、さびしい風景だと思った。自分がさびしいのではなく、風景がさびしいのだ。さびしい絵だ、とか、さびしい写真だというのと同じ感覚。そこをストレートに表現してみた。これでもいいようなものだが、ちょっと感情が出すぎているような気もする。

三椏や天城の渓はふとさびし

こちらの方が、一瞬をとらえていて少しいいかもしれない。
と、昨日までは思いつつ、これも、今朝になってちょっと違うように思えてきた。この句から「天城」をとってしまったら、つまらないのではないだろうか。逆に言えば、「天城」という言葉は、個性が強すぎる。

三椏やこころの渓のたたずまひ

と変えつつも、ここで行き詰ってしまった。「三椏」とか「渓」という言葉に、あまりにも自分の思い込みがこめられすぎているのではないか。

三椏の花は不思議な花だ。小さいバナナのような形をして、猫の毛のようなにこ毛の蕾は、いつ見てもつい触りたくなってしまう。
花は唇のような形で、口を尖らして何か話したそうに見える。野生の花は黄色だが、園芸用には赤い花もあるので、ますます唇に見えてしまう。

三椏や声なき何か語りかけ

こういう感じ。「語りかけ」が、主語があいまいでどこか変なので、

三椏の何か言ひたし恥じらいて

はどうだろうか。{恥じらいて」と、擬人化したところが嫌味なので、

三椏や何か言ひたしさびしきか

としてみた。「さびしきか」と軽く問いかけているところがちょっと気にいった。


<090203/推敲>
この句は主語が曖昧でどうも気持ちが悪い。意図するところは、「三椏よ、何か言いたそうにしているけれども、さびしいのかい?私もそうなんだよ」ということなのだが、そこのところがもたついている。

三椏の何か言ひたきやさびしきや

ということだが、「き」と「や」の繋がりが不自然(文法的に間違っているのか?)で、しかもそれが二つ重なっているところが気に入らない(意識的なのだが)。

三椏よ何か言いたいかさびしいか

と、口語調にした方がすっきりする。この字余りをどうにか解消したい。

三椏の何か言ひたやさびしきか

また、文語に戻ってしまったけれども、これでどうだろうか。何とも言えないので保留。





南伊豆の正月/4-河津七滝巡り(2)

河津七滝最後の釜滝

一歩またよろよろ終の冬の滝

初景滝からさらに川沿いに遡ると、下流から五番目の滝「蛇滝」がある。蛇の鱗のような岩の間をくねくねと流れてきて、最後に小さな滝になっている。説明を聞くまでもなく、これが蛇滝だとすぐにわかる。そこからまたしばらく行くと、谷を高巻くようにして、目の前に胸を突くような急な石段。石段の先は、はるか上の方で曲がって木の陰に隠れ見えない。ここまで来るだけでもかなり苦しく膝ががくがくなのに、この石段はとても登れそうにない。
あきらめかけたとき、横に緩やかな石段があり、案内板もあって、そこからでも行けると書いてある。六番目の海老滝と最後の釜滝を一周できるようになっているらしい。子ども二人はさっさとその緩やかな石段を登って行ってしまい、妻も私を連れていこうとするのだが、私はと言えば、もう疲れてしまい、滝なんかどうでもよくなっている。それでもしぶしぶ妻についてゆるい石段を登っていくと吊り橋があり、そのすぐ下に海老滝があった。どこが海老滝なのか。どうも水が落ちる際に、岩にあたって白い横縞模様を描き出しているところを、海老のしっぽに見立てたもののようだ。
そこからが問題で、最後の釜滝に行くためには、またもや急な石段を登らなければならない。結局は、右から行こうが左から行こうが、急な石段を登らなければならなかったのだ。

蛇滝 海老滝
▲左:岩が大蛇の鱗のように見える蛇滝。右:海老と言われれば海老に見えなくもない海老滝。

後でわかったのだが、この釜滝は、昔は地獄谷とも呼ばれていた難所だったらしい。石段をよれよれになりながら登り切ると、目の前がぱっと開け、突然滝の音が響いてくる。その開けた視界の百か二百メートルほど先に、大きな滝がある。これまで見てきた滝の中では一番ワイルドな感じで、雰囲気がある滝だ。苦しみもがいた後には、こうした思いがけない喜びも、たまにはある。

一歩この影もあえぐや冬の滝

ときどき、背中から日を浴びて、自分の影を踏みしめ踏みしめ石段を登っていると、自分の影までもあえいでいるのがわかる。その様子を表現している。「影もあえぐ」というところがおもしろいかと思っていたのだが、意外につまらない。この句から、「影もあえぐ」ほどの道の険しさがあまり感じられないのはなぜだろうか。

一歩またあえぐや冬の滝の路

「一歩この」を、「一歩また」として、一歩一歩険しい道を登っていることを強調した。また、「影もあえぐや」が陳腐なので、ただ「あえぐや」とし、最後を「滝の路」として、わかりやすくしてみた。
昨日まではこれでいいと思っていて、さて、今日見直してみると、どうも説明的でつまらない。新しさもない。これでは句にしている意味がないように思えてきた。「冬の滝の路」ももたついて説明的だ。

一歩またよろよろ終の冬の滝

「あえぐ」がどうも古臭い感じを与えるので、「よろよろ」といかにも疲れた様子を強調し、「終の冬の滝」と、いろいろ見てきた中での最後の滝ですよ、というイメージを出した。
本当は「一歩またよろよろと行く終の滝」としたいところなのだが、これだと「滝」が夏の季語なので、夏の俳句になってしまい具合が悪い。「冬の」を入れざるを得なかったところが苦しいところだ。






南伊豆の正月/4-河津七滝巡り(1)

釜滝の滝壺

行く先は落ちるばかりの冬の滝

旅館の薦めもあって、河津七滝というものを見に行くことにした。天城トンネルに向かって車で約20分。天城の崖を一気に降るループ橋の下を左折すると、すぐ河津七滝の入口になる。
河津温泉旅館の横をだらだら渓に降りていくと、一番下流の大滝(おおだる)に出る。この大滝は七滝の中では最大のスケールを誇っているらしい。まあ、それなりの中くらいの滝である。滝のすぐ横に穴があり、「秘湯穴風呂」と書いてある。おもしろいと思っていたら、帰る途中の岩にもところどころに穴が開いていて、中は狭く暗い温泉になっていることに気がついた。この穴風呂は旅館の私有物なのだろうか。気になる。
この滝の先へは、川沿いに行くことができないので、いったん戻ることになるのだが、これが意外に大変。かなりへばってしまった。運動不足を痛感。

大滝全景 大滝温泉の穴風呂
▲左:七滝最大の大滝全景。右:滝のすぐ横にある「秘湯穴風呂」入口。

道路を歩いて、滝とは言えないような「出合滝」と「カニ滝」を過ぎ、「初景滝(しょけいだる)」へ。この滝は人気があるようで、ツアー客などで賑わっている。車道を外れて川沿いに歩いて行くと、途中に休憩所があり、あまり目立たない踊り子の像がある。何でこんなことをするのかと思っていたら、なんと、初景滝のまん前にも立派な(というか、どちらかといえばあまり冴えない)伊豆の踊り子のブロンズ像があるではないか。誰が考えたのかは知らないが、効果があるとは思えない。初景滝そのものは、それほど大きい滝ではないけれども、それなりに趣がある。踊り子の力を借りなくても、十分に人を呼ぶことはできそうだ。

初景滝(しょけいだる)全景 初景滝の踊り子像
▲左:初景滝全景。右:あまり冴えない伊豆の踊り子ブロンズ像。

ここまで、七つの滝のうち、4つを見たきたが、そろそろ飽きてきた。そもそも、冬の滝の魅力とは何だろうか。「滝」は夏の季語で、新緑を背景にして眺めてこそ、その魅力を感じることができることになっている。去年の冬、日光の華厳の滝を見に行って、俳句を作ってみた。寒い日でときおり雪が舞い、滝も凍っていたので、それなりに趣があり、俳句も作りやすかった。ところが、この伊豆の冬の滝はどうだろう。滝によって多少違いはあるとしても、滝は滝、ただ水が流れてきて落ちるだけだ。どうどうと天上を揺るがしているわけでもなく、神が潜んでいるようにも見えない。写真に撮っても、あまり撮りようがない。みな同じになってしまう。

踊り子と巡るうらうら冬の滝

こんなところでお茶を濁してしまおうと思ったのだが、それでは情けない。水が流れてきて落ちる、というその冬の滝の虚しさに焦点を絞ってみた。

振り向けば虚しく落ちる冬の滝

「振り向けば」は、「ば」で軽く切れ、自分の過去とかけているつもりなのだが、「虚しく落ちる」との繋がりがスムーズすぎて、意図が不明瞭、インパクトがない。

振り向けば虚しさばかり冬の滝

わかりすぎるほどわかる。まず、「振り向けば」が陳腐なだけでなく、それに輪をかけて「虚しさばかり」が陳腐の上塗りになっている。

行く先は愚かに落ちる冬の滝

「行く先」は、水の流れの行く先であり、これから見に目的地であり、自分の未来でもある。それが「愚かに落ちる」とはどういうことか。「愚か」がストレートに断定しているのでつまらない。

行く先は落ちるばかりの冬の滝

「虚しさ」とか「愚か」とか、感情を表す言葉を排除してみた。この方がすっきりする。
あえて解説すれば、自分の未来は、ただ落ちるだけで何の魅力もない冬の滝のようなものだ、ということ。





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