冬茜失せゆくものをつらつらと
この正月の南伊豆の旅シリーズを、ずるずると二月中旬まで引っ張ってしまったので、この辺で終わりにしたい。
随分暗くなって、もう帰ろうとした頃になって、観光バスが到着し、中から例によっておばさん、おじさんがどやどやと出てきた。夕陽を見に来たのが、どうやら渋滞に巻き込まれて遅くなったものらしい。空にはまだうっすらと茜色が残っていて、富士山もかろうじて見える。ひとしきりフラッシュがたかれ、賑やかになったと思うと、すぐ集合の合図がかかり、またバスに乗り込んでどこかに行ってしまった。海岸の遊歩道に残されたのは、数本のペットボトル。どこか虚しさを感じる。憤りというのではなく、哀愁とでも言うか、写真を撮ってみると、それがよくわかる。
愚かさの取り残されて冬茜
団体旅行の愚かさをしみじみと感じながら、また、自分のこの旅の愚かさをも感じている。結局、この旅は、このおばさんたちの旅と、何も変わらないのではないか。おばさんたちは、さっさと帰ってしまったからわからないかもしれないが、自分は茜空の下に残された愚かさを見ている。たまらない。
この句には、感情が出すぎていて、耐えられない。
つらつらと失せゆくものの冬茜
この旅のこと、病気のこと、昔のこと。消えていくもの、失くしたものをつらつらと思いだしてみる。失くしたものを悔やんでもしょうがない。消えたものを追いかけるつもりもない。ただ、なんとなくけだるい。
そのけだるさはわかるが、もたもたとし過ぎているので、
冬茜失せゆくもののつらつらと
順番を変えてみる。最後の締めの句としてはちょっとさびしいが、旅の終わりの雰囲気は出ている。
<090213/推敲>
「冬茜失せゆくもののつらつらと」は非常にわかりづらいので、「失せゆくものの」を「失せゆくものを」に変更してみた。
冬茜失せゆくものをつらつらと
説明的になってしまったが、わかりやすい。