春行けば我も行くなり無我世界
気がつけば、もう四月も明日一日のみとなって、春ももう終わってしまう。それなのに、俳句をつけようと思っていた写真が、まだたくさん残ってしまった。俳句は推敲途中のものもあれば、まったく手つかずのものもある。連休中は長野に行く予定で、俳句は作れないので、少し焦っている。
今日もこれから予定があるため、取り急ぎアップして、検討は明日に回したい。
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清澄庭園中央の泉水と水上に張り出している数寄屋造りの茶屋「涼亭」。春のカモメが飛び交う静謐の世界だ。
清澄庭園の由来など、調べて見ると非常に面白いのだが、ここでは割愛して、俳句写真に集中。
この写真は、清澄庭園の良さを非常によく表現できていると思う。これは後で気づいたのだが、水上の回廊では、二人の男性が座禅を組んでいる。肉眼では見えなかったものが、超望遠レンズを使用したことで見えてきた。
また、ユリカモメもちょうどいい感じで飛んでいる。
ユリカモメは、いま冬の羽根から夏の羽根へ変わる時期。頭がまだらに黒くなっているのも、写真を見て気づいたことだ。
▲左:写真をアップにしてみると、回廊で座禅を組んでいる人がいることに気がついた。右:夏羽に変わりかけているユリカモメの頭。冬は真っ白な頭の羽根が、まだらに黒くなっている。
ここで一番感じるのは、この静謐感。座禅を組んでいるところから、「無我」という言葉が自然に出てきた。この言葉を大切にしたいという直感。
垣間見る無我の境地や春かもめ
「無我の境地」というのとはちょっと違う。もっと大きな宇宙的なもの。
春かもめ無我の世界を垣間見る
「春かもめ」は、季語を無理やり入れているようで、しっくりこない。「垣間見る」もどこか変だ。全体として、写真を説明してしまっている。
春行けば我も行きたし無我世界
そろそろあと数日で、暦上は春も終わりなので、季語を「行く春」に変えて見ると、自ずと下の句が変わってきた。
ただ、「行きたし」というのはどうだろうか。俳句としては、「行く」ときっぱり言いたいところだ。
春行けば我も行くなり無我世界
いまふとあることに気がついた。「我も行く」と言うフレーズ、たしか「昴」という歌に出てくる。「・・・我は行く さらば昴よ」。ちょっと困ったかも。