ブログしばらく休みます

みなさま、いつもこのつたないブログをご覧いただきありがとうございます。
かねてより目に異常を感じておりましたが、
今日、精密検査をした結果、腫瘍の疑いがあるということで、
急遽、明日の朝から入院することになりました。
期間は未定ですが、ブログはしばらく休みたいと思います。

退院したらまた、心機一転、何か変わった視点で俳句写真を
続けられたらいいと思っています。
どうぞよろしくお願いします。


信濃ぶらり旅-14/小諸布引山の路傍の仏たち

岩穴の中の小仏

夏帽子仏の石を積み直す

観音堂に登ってくる山道の途中で、いろいろな仏たちと出会った。そうした仏に詳しくないので、何が何の仏様なのかはさっぱりわからないが、それぞれどこか重みのようなものがあって、興味をひかれる。
石でできたもの、木でできたもの、青銅でできたもの、形のはっきりしたもの、崩れかけたもの、威厳のあるもの、奇妙なもの。路傍の仏たちはさまざまだが、なぜか、ほとんどの仏のかたわらには石が積まれている。
賽の河原の石をイメージしているのだろうか。誰かが積むとそれを真似した誰かがまた積むのだろう。もちろん遊びなどではなく、信仰として本気で積んでいるのだ。

赤いよだれかけの小仏 光背のある仏
▲左:岩穴にあった石仏。おそらく子供を亡くした人が、帽子やよだれかけなどを作って奉納するのだ。右:これは光背を持った立派な観音だ。よだれかけに「いつまでも幸せに」と書いてある。

傾いている仏 奇妙な仏
▲左:どこでもよく見かける形の石仏。まだ新しいように見えるが、「文政元X寅年七月十九日」と書いてある。よく見ると衣裳が非常にユニークだ。右:奇妙な顔の石仏。この隣にある石仏もユニークだ。(下の写真の石仏をアップで撮影)

崖に並ぶ石仏 変な狛犬
▲左:崖の窪みに並んでいる石仏。右の数体はお地蔵さんだと思うが、左の二体は何だろうか。形も顔も変わっている。おかしいといえばおかしい。笑える。右:寺の入り口にあった狛犬。狛犬ともなんとも言いようがないほど風化してしまっている。ここにもなぜか石が置いてあって、どことなくユーモラスに見える。

石段の上の立派な石仏 欄間の透かし彫り
▲左:石段の上に安置された立派な石仏。まだ新しいような感じだ。右:これは仏ではないが、気にいったのでここに紹介してみた。古いお堂の欄間部分にある透かし彫りで、まあ、神社や寺でよく見られるようなものだが、子の透かし彫りをよく見ると、馬の足もとに野草が彫られてある。なんという野草かわからないが、これほど素朴な野草をあしらった彫刻は見たことがない。横の梅などに比べれば、あまり型にはまっていなくて、妙にリアルだ。

私は、写真を撮りながら歩いているので、どうしても妻に遅れてしまい、妻を待たせるような形になってしまう。この時も、遅れていくと妻が崖に向かって何かしている。傍に行って覗いてみると、崖に深い窪みがあって、そこに木彫りの仏様が置いてある。仏様の周りには小石がたくさん積んであって、妻も石を積んでいるようなのだ。

若葉雨仏に一つ石を積む

「仏に一つ石を積む」は、すぐに出てきた言葉で調子がいい。上五をどうするかだが、季語を入れる必要があるので「若葉雨」としてみた。いいような悪いような。どうでもいいような。ようするに平凡だということ。

虎が雨仏に一つ石を積む

何かいい季語はないかと歳時記を見ていると、「虎が雨」という季語を見つけた。曽我兄弟が討たれた陰暦の五月二十八日に降る雨のことをいうらしい。どことなくおもしろい。おもしろいが唐突だ。

夏帽子仏にひとつ石を積む

妻が帽子をかぶっていたので、「夏帽子」と置いてみた。どことなくぴったりとしているような気がする。
これでいこうと思って、しばらく経ってから見直してみると、どうもおもしろくない。すらすら行きすぎて、何も残らないのだ。いかにもありそうな、あたりまえのことをあたりまえに詠んでいる。

夏帽子仏の石を積み直す

この仏の石は、非常に多くて、無造作に石を乗せると崩れてしまう。妻も崩してしまって積み直していたのだ。
さっきの句よりは変化が感じられる。なぜ積み直しているのだろう、といった引っかかりが出てきた。まあ満足。





五月の死

マツバウンラン

五月に死す誕生石を海に捨て

写真の花は、マツバウンランと言う花で、最近になって見かけるようになった帰化植物。海岸近くの荒れ地などでよく見かける。
小さな花でひょろひょろとか弱く見える花だが、繁殖力は旺盛のようで、この四五年の間に、あちこちで見かけるようになった。

この俳句のイメージはよくわからないかもしれないが、一つの物語だと思って欲しい。
高校時代の同じクラブの後輩の女性が、20歳の時、東京の大学病院で心臓の手術を受けるのだが、失敗して死んでしまう。それが5月3日で私の誕生日と同じ日だった。
私は大学三年で、その日は大学紛争で学校に泊まり込んでいたのだが、たまたま下宿に帰り、死んだことを知らされ、駆け付けた時は、もう火葬場に行ってしまった後だった。
火葬場で、田舎から出てきたご両親に合うことはできたのだが、非常に切なくやるせない思い出だ。

五月に死す誕生石はエメラルド

基本的には、生まれたのも死んだのも同じ五月であるということを表現しようとしている。「誕生石はエメラルド」というのは、五月生まれであることを表現しているのだが、回りくどくてよくわからない。

五月の死誕生石は海に捨つ

これで少し普遍的になったか。五月に死んだということと誕生日としての誕生石の関係はなくなった。
「五月の死」と体言で止め、「海に捨つ」と、また終止形で止めるのはどうか。ぷつぷつと切れすぎる。

五月に死す誕生石を海に捨て

字余りでも「五月に死す」の方がいいような気がする。「誕生石を海に捨て」は、ずいぶん甘いが、どことなく捨てきれない。

◆ ◆ ◆

以上、今日は写真俳句を一挙に7点もアップしてしまった。推敲も十分ではないが、明日から約一週間休みなので、やむをえない。
来週からはいよいよ夏。季語も夏に変わる。





ナガミヒナゲシの花

ナガミヒナゲシの花

ひとひら落つふたひら落ちて四月尽

歩道の街路樹の下や分離帯、空き地など、どこにでも生えているナガミヒナゲシ。今はほとんど花は終わりかけているが、それでもまだまだ見かける。花弁は四弁で、大きな花弁が一枚ずつぽろりぽろりと落ちる様子は、潔くもあり、どことなく哀れでもある。
よく見ればきれいな花なのだが、雑草の悲しさで、ほとんど見向きもされない。もともとは園芸種として日本に入ってきたものが、いつ頃からか野性化し、いまはすっかりやっかいものになってしまった。

野の花のひとひら散れば四月尽

普通の俳句とは違い、写真がすべてを語っているので、野の花などといった言葉は必要ないかもしれない。

ひとひら落つふたひら落ちて四月尽

本当は「一片」「二片」という表記にしたいのだが、どうも読めない。やむなく平仮名にした。
「ひとひら落つ」は、わざと字余りとして終止形で止め、一呼吸間を置くことによって、花弁が一枚ずつぽとりと落ちる様子を表現した。いいかもしれない。





富岡八幡宮の深川めし屋

富岡八幡宮の深川めし屋

深川や旬の浅利を食い損ね

門前仲町の商店街をちょっと歩くと、左手に深川不動堂があり、ちょっとその先に江戸の下町人情物によく出てくる富岡八幡宮がある。
ちょうどこの時期、アサリが旬で、名物深川めしでも食べようと、門前仲町界隈を探していたのだが、全く見つからない。たしか有名なお店は佃島にあったような記憶がある。半ばあきらめて富岡八幡宮まで来てみると、その鳥居をくぐったすぐ左手に、「深川めし」と書いたお店があるではないか。「ラムネ」などといった旗などもあって、昭和の下町の雰囲気だ。ここで食べることに決めて、ひとまず参拝し、ついでに隣の深川不動なども拝んで戻ってみると、なんと、もうラムネの旗もワゴンものれんもすべて片づけられて、準備中になっている。要するに食いそびれたということ。

四月尽深川飯を食いに行く

これでもいいようなものの「四月尽」とか「行く春」とか「夏近し」といった季語を使い過ぎているので、ここは違う季語を使いたい。

深川や旬の浅利を食い損ね

まあ、ここはこんなところで。





佃島相生橋下のボート練習

相生橋下のボート練習

青春をしている声の夏近し

越中島から佃島へ渡る相生橋の下は、絶好のボート練習場になっているようだ。数組のボートが大きな声で練習している。公園の見晴らし台のようなところで見ていた私のすぐ下を、この女子大生のボートが通り過ぎてゆく。

隅田川嬌声しぶき夏近し

これでは写真の説明。「嬌声しぶき」が工夫だが、ちょっと苦しい。

掛け声が嬌声となり夏近し

掛け声も、若い女性だと、どことなく艶めかしく聞こえるというイメージ。「嬌声」はないな。

青春をしている声の夏近し

むむむ。保留。





清澄庭園/金の鯉

清澄庭園の金の鯉

まなうらを走る五月の熱きもの

五月は私の誕生月ということもあって、一年の中で一番好きな月かもしれない。山も川も生き生きとして、子供の頃の思い出も多い。
俳句はひとまずこれだけ。この金の鯉の鮮やかな色からイメージした。説明するまでもないが、「熱きもの」と言うのは、懐かしさでもあり悔恨でもある。





清澄庭園/手水の波紋

手水の波紋

行く春に投げた小石の届かざり

明日からは連休で、軽井沢から万座近辺をうろうろするつもりなので、俳句を作ることもブログに何かをアップすることも、おそらく不可能だ。なのに、推敲中の春の俳句写真がまだたくさん残っている、ということで、推敲途中ではあるが、一挙に掲載することにした。駄句ばかりかもしれないが、まあ、一応考えたということで、記録しておく。
まずはこの写真。赤御影石をくりぬいた手水鉢で、竹の筒から水がぽつんぽつんと滴り落ちるしくみになっている。波紋がきれいだったので、写真を一枚おさえておいたのだが、この波紋を見ていて、なぜか、映画「おくりびと」を思い出した。
「おくりびと」は、私の故郷、庄内がロケ地になっているということもあり、話題になっているのは知っていたが、どうも内容と俳優が好きになれないということもあって、観るつもりはなかった。
ところが先日、高校の同級会のような集まりがあって、その映画が話題になり、まあ、話の種にと思って観たのだが、不覚にも涙を流してしまった。
懐かしい故郷の風景を目の前にしたこともあるかもしれないが、川原で本木雅弘が広末涼子に語る小石のエピソード、気がついたら、自分の眼尻から涙が落ちている。びっくりした。映画を見て泣いたなどと言うことは、高校時代以来だ。
この写真を見て、その小石のシーンを思い出したのだ。

行く春の後ろ姿に石を投げ

この写真の波紋が、小石を投げた時の波紋を思わせたのかもしれない。ちょっと何のことかわからない。

春行きて投げし小石の届かざり

なぜ投げた石が届かないのか、自分でもわからない。映画を観ての感想のようなものだ。もうこれでもいいようなものだが、言い回しがちょっと気になるので、

行く春に投げた小石の届かざり

としてみた。写真と映画と俳句のコラボレーションだ。







清澄庭園/泉水にある磯渡り

泉水の磯渡り

磯渡り揺らげば夏の渡るなり

泉水の端に大きな石が数個沈めてあって、水の上を渡れるようになっている。磯渡りと言うらしい。
この日は天気がよく、水面がゆらゆら揺れながら輝いているのだが、その水面をじっと見ていると、この大石がゆらゆら揺れているような錯覚を起こす。

飛び石のゆらり揺らげば夏渡る

この石を「磯渡り」と言うことを知らなかったので、「飛び石」としている。まあ、それはいいとして、「ゆらり揺らげば」はもったいない。「揺らぐ」ということを表わすのに七文字も使っている。

飛び石の揺らげば夏の渡るなり

「夏の渡るなり」は、もう夏がそこまで来ているイメージを強調したもの。こうなってくると「飛び石」が陳腐に見えてくる。何か違う言い方はないのかと思い、清澄庭園の小さなパンフレットを見ていたら、「磯渡り」と書いてある。なるほど洒落た名前だ。

名石の揺らぎて夏の磯渡り

ここの庭の石は、日本全国から集めた名石らしい。ところどころの石に、その由来が書いてある。そんな名石がごろごろしているのだ。この磯渡りもきっとどこかの名石に違いない。などと思って「名石」という言葉を入れて見たが、しっくりこない。「夏の磯渡り」も、子供が夏、磯で遊んでいるようなイメージになってしまった。

磯渡り揺らげば夏の渡るなり

ちょっとおとなしいが、ここはこんなところで・・・。





清澄庭園/水上の茶屋

清澄庭園の茶屋

春行けば我も行くなり無我世界

気がつけば、もう四月も明日一日のみとなって、春ももう終わってしまう。それなのに、俳句をつけようと思っていた写真が、まだたくさん残ってしまった。俳句は推敲途中のものもあれば、まったく手つかずのものもある。連休中は長野に行く予定で、俳句は作れないので、少し焦っている。
今日もこれから予定があるため、取り急ぎアップして、検討は明日に回したい。

◆ ◆ ◆

清澄庭園中央の泉水と水上に張り出している数寄屋造りの茶屋「涼亭」。春のカモメが飛び交う静謐の世界だ。
清澄庭園の由来など、調べて見ると非常に面白いのだが、ここでは割愛して、俳句写真に集中。
この写真は、清澄庭園の良さを非常によく表現できていると思う。これは後で気づいたのだが、水上の回廊では、二人の男性が座禅を組んでいる。肉眼では見えなかったものが、超望遠レンズを使用したことで見えてきた。
また、ユリカモメもちょうどいい感じで飛んでいる。
ユリカモメは、いま冬の羽根から夏の羽根へ変わる時期。頭がまだらに黒くなっているのも、写真を見て気づいたことだ。

水上の回廊で座禅を組んでいる人 夏毛に変わりかけているユリカモメ
▲左:写真をアップにしてみると、回廊で座禅を組んでいる人がいることに気がついた。右:夏羽に変わりかけているユリカモメの頭。冬は真っ白な頭の羽根が、まだらに黒くなっている。

ここで一番感じるのは、この静謐感。座禅を組んでいるところから、「無我」という言葉が自然に出てきた。この言葉を大切にしたいという直感。

垣間見る無我の境地や春かもめ

「無我の境地」というのとはちょっと違う。もっと大きな宇宙的なもの。

春かもめ無我の世界を垣間見る

「春かもめ」は、季語を無理やり入れているようで、しっくりこない。「垣間見る」もどこか変だ。全体として、写真を説明してしまっている。

春行けば我も行きたし無我世界

そろそろあと数日で、暦上は春も終わりなので、季語を「行く春」に変えて見ると、自ずと下の句が変わってきた。
ただ、「行きたし」というのはどうだろうか。俳句としては、「行く」ときっぱり言いたいところだ。

春行けば我も行くなり無我世界

いまふとあることに気がついた。「我も行く」と言うフレーズ、たしか「昴」という歌に出てくる。「・・・我は行く さらば昴よ」。ちょっと困ったかも。





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