俳句について(9)詩心と詩語

十月桜

大奥跡十月桜心寂し 

写真がなくて、俳句も作れなくなってきました。
これは、昨日作ってボツにしたもの。皇居東御苑の江戸城大奥跡の十月桜です。
この時期、この大奥跡辺りは、群生していたホオズキも枯れ始め、ノコンギクやヨメナなどの野菊も、どこか雑然として寂しげです。

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詩心と詩語(2011年10月28日)

俳句は詩である、ということはどこにでも書いてあるし、また私もそう思っています。
俳句を作る上でのチェックポイントは、「アイデア・エスプリ・レトリック」だと、以前、このブログにも書き、「エスプリ」をあえて翻訳すれば「詩心」だと言いました。
詩心を辞書で引いてみると「感じた事柄を詩に作りたいという気持ち」とあります。
確かにそうなのですが、これでは、辞書を引くまでもありません。
第一、「詩心」を説明するのに「詩」という言葉を使ってしまっては、説明したことにならないような気がします。
なので、「詩」をやはり辞書で引いてみます。
「文学の様式の一。自然や人事などから受ける感興・感動を、リズムをもつ言語形式で表現したもの」と出てきました。
「詩心」を私なりにまとめて見ると、「ある事柄(自然でも、人でも、物でも、出来事でもいいのですが)に興味を持ち(感応し)、感動した、あるいは感動しようとする気持ちを、リズミカルな言葉で表現したいと思うこと」でしょうか。
「詩語」は、「詩心」を表現する言葉ということになります。
いずれにしても「詩心」も「詩語」も抽象的で曖昧な言葉です。そこでもう少し、具体的な例をあげながら考えてみたいと思います。
 
何かに興味を持ったり感動したりすることは誰でも出来ます。しかし、興味を持ち感動するだけでは、「詩心」があるとか、「詩心」を持っているということにはなりません。
それを「詩」にしたいと思う気持ちが無ければ、「詩心」とは言わないのです。
「詩心」を理解するためには、「詩」とは何かを知る必要があるようです。
 
と、ここまで書いて、このテーマは一筋縄ではいかないということに、ようやく気が付きました。
最初は、例えば、「好きだから好きと言う、とか、きれいだと感じたからきれいと言う、といったことは、ごく常識的な感情であり、それを詩心とは言わない。」、また、「星だの菫だの、きれいな言葉を並べても、それを詩語とは言わない。」と言うようなことを書こうと思ったのです。
ところが、それを説明するためには、もっと、詩と言うものを根本から考えないとうまく説明できないのです。だらだらと非常に長い説明になってしまいそうです。

ということで、しっかり、考えをまとめてから、改めて挑戦しようと思います。
 「俳句について」は、とりあえずこれで一旦終了。考える時間が必要なので、しばらくお休みにします。



俳句について(8)仮名遣いを考える-2

匙一杯の光

秋惜しむ匙一杯の光もて

木の葉そのものが光を内包しているようです。 

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仮名遣いを考える-2
(2011年10月27日)

●仮名遣いと発音

文字は、物を認識し、相手にその物の情報を正しく伝達するために発明されたもので、漢字や象形文字など、ほとんどの文字が表意文字でした。
しかし、「考え」とか「思い」とか、「話ことば」のように形のないものを表現するためには、表意文字は適していません。そこで発明されたのが表音文字でした。
つまり、表音文字は、言葉を正確に伝えるための文字で、現代仮名遣いで言えば50音がそれに当たります。簡単に言ってしまえば、現代の日本語は、濁音、半濁音などを除けば、たった46文字ということになります。
しかもそれはほぼ、発音とも一致しています。というか、発音を50音に合わせたというのが正解でしょう。
一方、昔の日本語は、いろは48文字だとされています。が、しかし、方言を調べていると、昔の言葉は、とても「いろは48文字」では表せません。おそらく母音が5文字ではないのです。
例えば、「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」では発音が違うのでしょう。「づ」と「ず」、「ぢ」と「じ」も発音が違うのかもしれません。
方言で言えば、現代語の「し」は「suwi」、「ち」は「tuwi」というように発音されます。この「suwi」や「tuwi」にあたる文字は今のところ無いのです。

なぜ、こんな話をしたかというと、俳句は、文字にして目で見るものではなく、音にして詠うものなのです。そのため、文字よりも音が重要なのだと思います。つまり、旧仮名遣いであれ、現代仮名遣いであれ、正確に発音できない文字なのだから、どうでもいい、ということになります。
昨日の俳句で言えば、「行く秋の木々自づから輝きぬ」でも「行く秋の木々自ずから輝きぬ」でもどっちでも同じだということです。
「いや、それは違う。月とすっぽんぐらい違うのだ」という人もいますが、その根拠ははっきりしません。
オリジナリティやニュアンスが大切なのであれば、作者の直筆を見るしかありません。
仮名遣いではありませんが、例えば、芭蕉の俳句をいろいろな本でみると、同じ俳句なのに、漢字だったり平仮名だったり、字送りが違っていたり、と、どれが芭蕉の書いたオリジナルなのかさっぱり分からないものが多いのです。
それでも、漢字であろうが平仮名であろうが、芭蕉の俳句であることには違いなく、価値が下がるものでもないと思います。
極端かもしれませんが、芭蕉の「蛙飛び込む水の音」は、現代仮名遣いの「かわずとびこむみずのおと」と表記しても、旧仮名遣いの「かわづとびこむみづのをと」と表記しても、現代では発音は全く同じで、違いはわかりません。どちらでもいいということです。

俳句を文語体で詠むか、口語体で詠むかは、俳句の良し悪しを決定する重要な要素ですが、旧仮名遣いにするか、現代仮名遣いにするかということは、それほど重要ではないと思います。
ただ、昔の俳句を表記する場合は、旧仮名遣いにした方がいいようには思いますが……。
サイトなどに投稿された俳句の仮名遣いの間違いを指摘して、鋭く非難する人もいますが、それはその人の趣味やこだわりの問題であって、俳句の本質にかかわる問題ではないと思います。

ちょっと感情的になってきたので、仮名遣いについてはこの辺で。
次は「詩心・詩語」のようなことについて考えてみます。(続く)



俳句について(8)仮名遣いを考える

木々輝く

行く秋の木々自づから輝きぬ

久しぶりに近くの公園を散歩したら、この辺でももうちらほら紅葉が始まったようです。
木々が逆光に透けて、金色に輝いています。

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仮名遣いを考える-1
(2011年10月26日)

●文語体か口語体か

俳句を作る時にいつも迷うのは、文語体で作るか口語体で作るかということです。
私の場合は自然に出てくる言葉は文語体が多いようです。現代の俳句よりも芭蕉など、昔の俳句により多く接しているということもあるかもしれません。
ところが、現在出版されている俳句の本を見ると、現代の俳句でも文語体で書かれた俳句が7〜8割はあるようです。
どうしてなのでしょうか。
短歌の世界からは、すでに文語体は消えたように見えますが、俳句はまだまだ文語体が多いのは、一つには、文字数が短歌よりも極端に少ない、といことに関係しているかもしれません。
文語体は口語体に比べると言葉の歯切れがよく、短い文章に適しているようです。
また、俳句の結社によっては、口語体の俳句を禁止している結社も多いようなので、それも、文語体が多くなる理由の一つでしょう。
しかし、現在、俳句を除けば文語体で書かれたものは、皆無に等しいのではないでしょうか。
俳句だけ文語体というのも奇異な感じがします。
特に、戦後に生まれた人たちは、文語体の教育はほとんどなされなかったので、文語文法や仮名遣いなどは大の苦手で、俳句は文語体でなければならないなどと言われると、困ってしまうでしょう。
現実に、本などに載っているプロの俳人が書いた俳句にさえ、ちょっとおかしいのでは、と思われる文語体を見つけることもあります。
俳句の仮名遣いは、文語体か口語体かによって変わってきます。
例えば文語体で書かれた俳句に現代仮名遣いが使われていたのでは、ちょっと違和感があります。逆に、口語体で書かれているのに、仮名遣いが旧仮名遣いの場合はもっとおかしく感じます(そんなことはあまりありませんが)。
やはり、文語体には旧仮名遣いを、口語体には現代仮名遣いを使うのが自然です。
ところが、この旧仮名遣いというのが非常に難しいのです。
何かの本を読んでいたら、あの芭蕉でさえ、仮名遣いを間違えていた、というようなことが書かれていました。それほど難しいということです。
 
例えば、現代の「わいうえお」が「はひふへほ」になりそうだ、というのは大体想像付きますが、「ぢ」か「じ」か、「づ」か「ず」か、あるいは「い」か「ゐ」か、「お」か「を」か、「え」か「ゑ」かといったようなことは、辞書を引かなければまったくわかりません。辞書を引いてもわからない場合があります。
「かい」か「くあい」か、「ちょう」か「てふ」かなどは、判じ物のようで、昔の人の発音を知らなければ分からないことも多いのです。
その辺は、私が集めている方言とそっくりで、使用できる文字が制限され、発音を表記する文字がなくなってしまうと、その発音さえ新しい文字に合わせるように変化してしまい、昔の発音は消えてしまいます。
この話をすると、延々と終らなくなってしまうので、後回しにすることにして、その他にも、動詞の活用や音便化など、文語体には難しいことが山ほどあり、いつも悩まされます。
それでは、すべて口語体で書けばいいじゃないかと思い、そうする場合もあるのですが、時には文語体で書いた方がいい場合もあるのです。
結果として、文語体なのに仮名遣いは現代仮名遣い、という俳句が量産されることになります。
気付いていて、意識的に現代仮名遣いを使っているのであれば、まだいいのですが、まったく気付かないこともあるので厄介です。

その辺の対応をどうするか、それはまた明日。(続く)



俳句について(6)季語を考える-7

雁

雁行けば赤城の山の幕は下り

赤城山の紅葉は終わり、 もう冬支度に入ったようです。
雁?が雲の中を飛んでいます。

巌鉄  あゝ、雁が鳴いて南の空へ飛んで往かあ。
忠治  月も西山に傾くようだ。
定八  俺ぁ明日ぁどっちへ行こう?
忠治  心の向くまゝ足の向くまゝ、当ても果てしもねえ旅へ立つのだ。
巌鉄  親分!

ということで、赤城山シリーズは幕。チョン、チョン、チョンチョン……。

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季語を考える-7
(2011年10月25日)

●季語の使い方

季語を安易に使うと、類想・類句や月並みの落とし穴に落ちる。落とし穴に落ちるのは俳句を頭で考えるからだ、というようなことを前回は書きました。
どういうことかというと、人間の考えることなど五十歩百歩、もし、その考えが間違っていなければ、答えは同じになるはずです。つまり、考えて作るのでは、人と同じものしかできない、と言うことです。

「考える」と言うことは、ある目的に向かって進もうとすることです。ところが俳句には目的などありません。当然答えもありません。だから考えなくてもいいのです。
考えるから人と同じ答えになるのであって、考えなければ、人と同じになることはありません。答えは幾つでも出てきます。

考えないで俳句を作ることなどできるでしょうか。

例えば、人の顔をスケッチするとします。どこから描き始めますか?
ある人は目から描き、ある人は顔の輪郭から描くかもしれません。それはなぜなのでしょう。考えて描いているのでしょうか。おそらく何も考えていないはずです。
それでは、なぜそこから描き始めるのでしょう。また、最初に鉛筆を置く紙の位置はなぜそこなのでしょう。なぜ色はその色で、絵の具を混ぜる量はその量なのでしょう。
絵を誰かに教わって、人の顔は目から描きなさい、とでも言われていれば別ですが、そうでもなければ、おそらく、それは、その人の感覚なのです。頭ではなく、感覚で描いているのです。

俳句も全く同じです。頭で考えて作るのではなく、感覚で言葉を探すのです。
例えば、自然に対した時に、ぱっとひらめいた言葉、なぜか浮かんできた言葉を大切にするのです。
なぜ、その言葉なのか、ということを考える必要はありません。理由など要らないのが俳句です。
もっとわかりやすい言葉を、などと考える必要もありません。目的などないのが俳句です。
ただ一つ、必要なこと、それは、理由もなくパッと出てきたその言葉が、自分の心に響くかどうかということの確認です。
しかし、そうしたことはすぐにはわからないもの。それでもいいのです。
そうした言葉で俳句を作るとどこか不安で、すぐに直してしまいたくなるのですが、そこを我慢して、自分の感性を信じることです。
もちろん、駄句を山のように作ることになりますが、数日か、半年か一年先にその数多の駄句を見て、その中に、いいじゃないかと思える句が一つでもあれば、成功なのだと思います。
 
季語を決めて、そこから句を発想しようとすると、季語をどう生かすかとか、どう関連付けるかなどと、どうしても頭で考えてしまいます。
だから、季語のことは一旦忘れることです。
私は、ほとんどの場合、季語から俳句を作るのではなく、写真を見て俳句を作るので、考えると言うよりはその写真に感応して言葉が浮かんでくる、という感じで俳句ができて行きます。
そこに季語が入っていれば儲けもの、といった感じなのです。
ただ、その場合の弱点は、発想がどうしても写真に引きずられて、写真の説明のような句になりがちなことです。もっと、本能的な感性や、動物的な感性を磨いていかないといい俳句にはならないようです。

私は、写真を見て俳句を作りますが、他人の撮った写真を見て俳句を作ることはできません。その写真に何も感じないからです。つまり感性が働かないということのようです。
自分が撮った写真は、すでに、撮ろうとした時点で、その対象物に対して感応しているということなので、俳句が作りやすいのだと思います。
また、秋に、夏の写真を見て句を付けることもなぜかできません。やってみてもうまくいかないのです。体や感覚が季節に感応しないためなのでしょう。

類想・類句の落とし穴に落ちないための、季語の使い方のまとめです。

・季語で俳句を作るな。俳句に季語が入っていれば儲けものだと軽く考える。
・俳句に季語を入れたいときは、理屈や理由で選ぶのではなく、ひらめきで選ぶ。
・俳句は「考え」て作るのではなく、「感覚」で作る。自分の感性を信じる。
・当季ではない俳句は作らない。例えば秋に春の句を作ろうとすると、感性は働かず、頭で考えて作ることになる。

季語は、俳句にとっては非常に重要なことなので、まだまだ言いたいことはありますが、ひとまずこの辺にして、次は仮名遣いについて考えてみます。(続く)



俳句について(6)季語を考える-6

ななかまど

上州の風に散りたる七竈

赤城山のナナカマドの葉は、既に散っていましたが、裸になった真っ赤な実も、またいいものです。
独特の冬芽がきれいです。 

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季語を考える-6
(2011年10月24日)

●季語のデメリット

季語は便利だからと言って、安易に使ってしまうと、どこかで見たことがあるような、つまらない句になってしまうことがあります。
それは、誰もが同じような思いを持ってその季語を使おうとするためで、似たような句ができてしまうのは当然なのです。
特に「梅」とか「桜」といった季語は、日本人好みで、昔から多くの人に使われ、もう手垢が付いている季語です。自分ではよくできたと思っても、よほど発想や表現に独自性がないと、大概、誰かがすでに詠んでしまった句の焼き直しのような句になっていることが多いのです。
例えば、自分の恋愛体験を桜の儚さに託して、抒情的な句を作ったとします。しかし、それがどんなによくできた俳句でも、桜の儚さと言うイメージは、もう平安時代の昔から数え切れないほど、さまざまな人たちによって詠まれてきたのです。
作る意味さえ無いのです。そうした俳句に、もし意味を見出すとすれば、自己満足ということしかないでしょう。「桜」を季語に選んだ時点で、すでに落とし穴にはまっていたのです。

どうしてそんなことになってしまうのかといえば、別に、季語の「桜」が悪いとか、「桜」の季語を使ってはいけないということではなく、使い方が悪いということなのです。
「桜」というイメージを、頭の中で考えてしまっている、つまり、過去に習ったこと、見たこと、知ったことなどを総合しながら、頭の中で考えて作っているから、類想・類句ができてしまうのです。

・季語のデメリット1:季語はすでに多くの人に使われていて、中には手垢のついた季語もあるので、類想・類句に陥りやすい。

次に、これはメリットとの背中合わせなのですが、季語がそれ自体で独立したイメージを作り出す力があるため、それに頼りすぎ、安易に使ってしまうということです。
例えば、季節とは何も関係ない自分の心境などを詠んで、最後に取り合わせとして季語を入れる、といった俳句は、よく目にします。
ある程度力のある人の句は、ほとんどそうした取り合わせでできているといっても過言ではないほど、溢れています。
ところが、その取り合わせの季語が、なぜこの季語なのか、と言ったものが多いのです。なんでもいいようなもので、いわゆる飾り物。季語を入れなければいけないので入れた、と言うようなものや、中には古くさく陳腐な季語を使用しているものもあるのです。
なぜそうなるかと言えば、季題が先にあって、その季題にあった俳句を机上で作ってしまうとか、言葉のきれいさ、文字数、流行りなど、その俳句とは関係ないことで季語を選んでしまうからで、これも季語の大きな落とし穴と言えます。
こうした落とし穴に落ちてしまうのも、俳句を頭の中で考えて作っているからであって、実感が伴っていないからなのです。

・季語のデメリット2:季語は便利で使いやすいため、安易に使ってしまい、結果として陳腐な句になりやすい。

こうした落とし穴に落ちないために、どうすればいいか。
その辺を明日は考えてみます。(続く)



俳句について(6)季語を考える-5

覚満淵

赤城山あっけらかんと冬隣り

赤城山大沼のすぐ近くにある覚満淵(かくまんふち) という小さな湿原です。
大沼と高さもあまり変わらない(1350メートルほど)のに、シラカバ、ダケカンバ、クヌギ、ナナカマドなどが多く、紅葉もほとんど終りのようです。
赤城山は、日光や長野などの山と違い、大きな谷や入り組んだ山並みなどもないため、開けっ広げな感じで、紅葉も単純、どこかあっけらかんとしています。

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季語を考える-5
(2011年10月23日)

●季語のメリット

今、自分が書いてきたこの文章を読み返してみると、ずいぶん大雑把で乱暴で、季語に対して失礼なことを書いているようです。
私は、俳句に季語は必須だとは思っていませんが、季語を否定しているのではなく、むしろ、もっと季語をうまく使った方がいいと思っています。
私の座右の書は、講談社の「カラー図説・日本大歳時記全五巻」で、いつでもすぐ手の届くところに置いてあります。
俳句を作る時に参考にするということもありますが、むしろ、暇なときに手にとって、適当に開いたページを見る、といったことの方が多いのです。
歳時記には、日本の文化史を見るような楽しさがあります。特にこの「講談社の「カラー図説・日本大歳時記」は、ほとんどの季語について、カラー写真が添えられていて、動植物や風俗などの図鑑を見るような楽しさがあり、何度見ても飽きることがなく、新たな発見があります。

季語の中には、和歌の時代から多くの人に親しまれ、また、多くの人の思いがこもった季語があります。
例えば、「梅」「桜」「紅葉」などといった季語は、その代表的な例です。「梅」というだけで、梅の花が咲いている風景や、花の香りや、さまざまなエピソードや、文学、絵画、子供の頃の思い出など、何の説明もなくても、目の前にぱっと浮かんできます。
季語に触発される感性や思いは、日本人が共通して持っているものなのでしょう。
「桜」や「紅葉」にしても同じです。季語は、それだけ強烈なイメージを持っている言葉なのです。
字数が制限されている俳句にとって、これほど便利なものはありません。たった一言で、想像もできないほどの広く深い世界を表現できるのです。
何十何百という説明や修飾の言葉を並べるよりも、季語一言の方が、より分かってもらえる、ということだってあります。
句を鑑賞する人は、季語に自分の思いを託すことによって、深い鑑賞をすることもできるのです。

・季語のメリット1:季語には日本人が共有する感性が詰まっているので、その言葉を説明する必要がなく、文字数に制限のある俳句向き。

また、もうひとつ大きなメリットは、季語は呪文の様な魔法の言葉で、表現に行き詰った時の切り札になる、ということです。
季語はそれ自体で、強いイメージを持っていて、一つの世界を作る力があります。
それまで、今一つ力のなかった句が、季語を変えることで、生き生きとしてくることはよくあることです。
俳句を作る時に、まず季語を考えてから俳句を作る人がいます。句会などでも、まず季語が出されて、それに合わせた句を作ることが多いようです。
そうした時に、その季語を深く掘り下げるのではなく、まず、季語を上五に入れて、あとは七・五で、何か別の世界を取り合わせる、といったこともできるわけで、これほど便利なものはありません。
これは、邪道といえば邪道で、大概、俳句とも言えない俳句ができてしまうのですが、例えば、五・七まではできたけれども、後の五が思い浮かばない、とか、五・七で言いきってしまって、もう言うことはなくなった、と言ったときに、下五に適切な季語を置く、といったこともできるのです。
季語を置くことによって、句の世界が広がることは確かです。

・季語のメリット2:俳句を生き生きさせ、イメージの世界を広げる力がある。

季語には、句を作るうえでも、句を鑑賞するうえでもこうした大きなメリットがあるので、季語を使わない手はありません。
しかし、いいことばかりではありません。不用意に、または迂闊に季語を使ってしまうと、とんでもない落とし穴に落ちてしまうので注意が必要です。

季語のデメリットについては、また明日(続く)



俳句について(6)季語を考える-4

紅葉雨

雲走り秋色湖(うみ)に滲みだす

赤城山大沼。湖上を雲が激しく行き交います。
一面雲に覆われたかと思うと、さ〜っと雲が引いて鮮やかな紅葉が浮き上がるといったことの繰り返し。
雲が走るたびに紅葉は風に流され、湖に散って、山はみるみる色があせて行くようです。

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季語を考える-4
(2011年10月22日)

●季語の必要性

俳句に季語は、なぜ必要なのか、ということをちゃんと説明できる人はいるでしょうか。
季語の成り立ちについては、先に少しふれました。つまり、連歌の発句は、もともと仲間に対する挨拶の意味があったので、その時の季節を詠み込むことが慣例のようになっていて、いつの間にかそれが約束事になっていたということです。

 季語がなければ俳句ではない、という人たちの多くは、その理由として「約束だから」と考えているようです。
俳句は季の挨拶である、そういう約束の上に俳句は成り立っているので、季語を入れるのは当然だ、という考え方です。
しかし、それは連歌の発句のことであって、正岡子規以降、一句として独立した俳句では、挨拶性などは希薄になっています。連歌の約束事など、現代の俳句に適用することはないのではないか、という考え方もあり、季語の根拠は揺らいできました。
俳句に季語は必要なのは「約束だから」、「約束は守らなければならないから」と言うだけでは、非常に説得力に欠けるようです。
 
一方で、「俳句は季節を感じる詩である」という考え方があります。
日本には四季があり、日本人は昔から微妙に移り変わる季節に敏感に感応してきました。
季節から触発される感性や感情は、詩的感情にまで高まって、俳句や短歌や詩として表現され、数多くの文学作品を生んできたのも事実です。
そうした中で、俳句は、連歌や俳諧と言われた時代から俳句と言われる現代まで、自然を詠い続けてきました。なので、季節のものを取り上げ、季語を使うのは当然である、という説明です。
確かに、「季語=約束説」よりは、説得力がありそうですが、「俳句は季感詩」であると考えることから導かれた説明です。

しかし、ここでさらに考えを進めて見ると、俳句というのは、果たして自然だけを詠んでいればいいものなのか、という疑問にぶつかります。
我々は、自然の中に暮らしていながらも、時代や社会をも生きています。
詩の対象は自然だけではないのです。恋愛や仕事や、病気、死など、人間が抱えている問題はたくさんあります。
物事は季節感情だけではとらえられないのです。
俳句は自然だけを詠んでいればいいという考え方では、自らその領域を狭めているようなものです。
感情や感性を表現しようとしたとき、そこに理不尽な思考の制限を加えられるようでは、自由でのびのびとした表現は望めないでしょう。
「無季俳句」というのは、そうした考え方から作られているのです。

芭蕉は、季語についてどう考えていたかというと、「旅行や恋愛などの俳句には、季語なんかいらない」、というようなことを言ったのは有名な話で、自身、無季俳句も作っています。
おそらく、俳句に季語などどうでもいいと思っていたのでしょう。季語よりも大事なものがあったのです。

こうしてみると、俳句と季語の関係などはあまり重要ではない、という結論に落ち着きそうです。
 
しかし、それでも、いまだに季語にこだわる人たちはたくさんいます。結社と呼ばれる多くの俳句の団体が、有季定型を提唱しています。
それでは、現代俳句で季語を使うメリットは何か、次回はその辺を考えてみます。(続く)



俳句について(6)季語を考える-3

白樺牧場の白樺

紅葉して白際立ちぬ白樺(しらかんば)

赤城山の白樺牧場です。
靄がかかっていて、あまりはっきりしない天気でしたが、紅葉は最高潮で、とくに白樺の紅葉は見事でした。
靄の中、超望遠を使って手持ちで撮っているので、写真がどこか寝ぼけています。

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季語を考える-3
(2011年10月21日)

●死語と季語

私は方言をいろいろ収集してまとめています。
そこでわかったことは、言葉と言うものは環境によってどんどん変わっていくものだということです。
昔であれば、もともといた土着民の言葉に、侵略者とか、戦に敗れた落人、交易によって入り込む商人、職人、遊郭などの言葉が次々と入ってきて、方言は時代とともに少しずつ変わっていきました。
また、江戸時代には大名の国替えなどがあって、権力者が他国から大勢の人を引連れてきたために、その地方一帯の言葉がまるごと変わってしまったり、ということはたびたびありました。
現代では、テレビの普及によって、方言はほとんど姿を消しつつあります。
言葉は変わっていくものです。方言がすたれて行くのを見るのは忍びないことですが、そういうものと諦めるよりありません。

昔から季節を表す詩的な言葉として受け継がれてきた季語も同じことです。
人々の暮らしが変わってしまって、今は死語になってしまったものが数多くあります。
そうした季語に愛着を感じるのはわかりますが、いつまでもそこにとどまっていては、俳句はどんどん時代に取り残されていきます。
いま手元に秋の歳時記があるので、そこをぱらぱら見て見ると、とくに「生活」の項目には、今となっては何のことかさえわからない言葉がいくつかあります。
例えば、「砧」。秋の夜に「砧」を打つ音がするなどと言うのは、非常に情緒があっていいのですが、いまどき「砧」などを知っている人はいないでしょう。
また「菊襲(きくがさね)」とか「紅葉衣(もみじごろも)」と言われても、言葉はきれいですが、何のことかわからない人がほとんどでしょう。
このような古い言葉は、昔の俳句を鑑賞する時には役に立ちますが、作る上ではほとんど使うことはない季語です。

こうした、死語となってしまった季語をどう扱うかは非常に難しい問題です。
俳句に季語を入れることが必須でなければ、別に問題はなく、歳時記は「俳句辞典」と言った位置づけにできるわけですが、季語が必須となると厄介になるわけです。
自分が使っている季節を表す言葉が、はたしてその季節の季語であるかどうかというのは非常に重要になるからです。
自分では季語のつもりで使った言葉が、歳時記に載っていない、ということもよくあることです。そんなときに、むりやり季語を入れようとして、俳句そのものを壊してしまうこともあります。
いま、季語と言うものがどれくらいあるものなのか、手元の講談社版日本大歳時記の「秋」を調べてみたら、約3500語です。春・夏・秋・冬・新年の五冊を合わせると、おそらく一万五、六千語くらいになるでしょう。
これだけの数の季語が認定されていながら、作る側にしてみれば少なく感じます。しかし、かといって、どんどん増やしてしまっては、すべてが季語と言ったことになってしまいそうです。

だらだら書いているといつまでも終わりそうにないので、ここで整理してみます。

●現在認定されている季語(歳時記に記載されている季語)には、すでに「死語」となってしまった言葉が多数含まれている

●死語となってしまった季語は、作る側にとっては意味がない。無理に使おうとすると陳腐な俳句が出来上がる

●それでは、死語となってしまった古い季語は、歳時記から削除すればいいかと言うと、それはできない。 古い季語を削除してしまうと、古い俳句を鑑賞できなくなる

考えてみれば(考えるまでもないのですが)、日本は南北に長いため、例えば、北海道と沖縄では全く季節感が違います。本州の日本海側と太平洋側をとっても、季節にはかなりの違いが見られます。
地域による季節感の違いを、一つの歳時記でくくってしまおうとすることにも問題があるようです。
また、都会では、野菜や果物などは一年中手に入ります。空調もしっかり効いていて、季節感をさほど感じなくなっています。そうした季節に対する感覚のずれも問題です。

生活の変化に伴う言葉の変化、地域による季節格差、季節感のずれなどに、現代俳句の季語はどう対応していくのでしょうか。
本当に、俳句に季語は必要なのでしょうか。季語の役割とは何なのでしょうか。
明日からは、そうしたことについて、思いつくままに書いていこうと思います。



俳句について(7)俳句の挨拶性

なるように

なるようになると笑った赤まんま 

外出から今帰ってきたところ。
今日は俳句を作る時間がなかったので、数日前に作って、まだ悩んでいる句を載せてみます。
悩ましいのは、単純すぎて、含みもなければアイデアもないこと。

対抗馬は、今のところ

振り向けば流されてゆく赤まんま

その昔水に流した赤のまま

頬染めてなるようになると赤まんま

といったところですが、どれも感情に流されすぎていてベタ。
もっとクールに行きたいところなのですが。

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季語についての考察も、今日は間に合わないので、過去の駄文でお茶を濁しておきます。

俳句の挨拶性
(2009/03/27 「俳句」四月号を読んで)
 
昨日、本屋で「俳句」四月号を手にしたら、「俳句の挨拶性を見直す」という大特集が載っていたので、つい買って読んでしまいました。
前半が過去の俳人の挨拶性の考察で、後半が現在活躍している俳人の方の「私の挨拶句」というエッセイになっていました。
何気なく読んでいると、なるほど、と思わされることばかりでしたが、私は、つい最近、俳句の挨拶性について考えたばかりで、しかも否定的な結論を出しているので、いろいろ気になることもありました。

まず、タイトルの「俳句の挨拶性を見直す」。「見直す」ということは、一時は重視し、その後、軽視されてきたけれども、もう一回重視しようではないか、ということだと思います。
俳句の挨拶性を重視したのは、山本健吉氏が最初ではないかと思いますが(昔から言われていることかもしれませんが、そのことを詳しく論じたのは山本氏ということです)、私はそのことに少し疑問を感じていました。
山本氏が言う「俳句は挨拶だ」という考え方はは、俳句の一面をとらえてはいますが、単に過去の俳諧がそうしたものだという認識にすぎません。挨拶性が俳句のすべてではないし、ましてや到達点ではありえないはずです。
ところが、今回の特集は、「俳句は挨拶である」と断定し、それを前提として組まれています。すべての執筆者が、何の異論もなく、俳句の挨拶性を肯定する文章を書いています。
俳句は人や自然に対する挨拶だ、というのはまだいいとして(そうした面もあるので)、俳句は自分への挨拶だという考え方や、俳句は存問だ、という虚子のような考え方は、俳句を自ら低めるようなものではないかと思います。
そこに誰も疑問を挟まないのが不思議でした。
私は俳句の挨拶性を否定するものではありませんが、俳句を「挨拶」という言葉でひとくくりにするような考え方には賛成できません。
例えば、芭蕉は、ほとんどの句を挨拶として詠んでいるようです。今回の特集にも書いてありましたが、

 五月雨をあつめて涼し最上川

などは代表的な例でしょう。しかし、芭蕉はこの句を後で、

 五月雨をあつめて早し最上川

と改めました。なぜでしょうか。
ここに、俳句は挨拶が到達点ではない という証明があるのではないでしょうか。
芭蕉は、俳諧の席では挨拶を重視した発句を詠みましたが、あとでその発句を直している例がいくつかあるようです。
芭蕉は、挨拶を重視したその発句をよしとしなかったわけです。挨拶ではない、何か別のものを求めていたことになります。
 「俳句は存問だ」などというところに留まっていたのでは、第二芸術と言われても仕方がありません。むしろ、挨拶性などということを否定することで、俳句の新しい方向が見つかるような気がします。

今、なぜこの特集が組まれたのか、まったく理解に苦しみます。
俳句は、いつか来た道を後戻りし、ますますサロン化していくようです。



俳句について(5)初めての選句

ウタダヒカル

秋の夜は宇多田ヒカルをそっと聞く

写真を整理していて、ぽっと浮かんだ俳句。
年甲斐もなく宇多田ヒカルの歌が好きで(特に詩がいい)、 シングルヒットを集めたCDをipodに入れて、散歩のときや電車の中などで、繰り返し聞いています。
しかし、馬鹿にされるのは目に見えているので、女房や子供には内緒。家で聞くときもヘッドホンでこっそりと……。

◆  ◆  ◆

以下のコラムは2009年3月にスローネットと言うサイトに投稿したものです。当時は俳句がおもしろくてしょうがないときで、いろいろな俳句サイトに参加していました。
ネットとはいえ、俳句のサークルに入ったのは初めて、もちろん選句などと言うのも初めてで、貴重な体験でした。

初めての選句 
(2009/03/12スローネット投稿)
 
初めてこのサイトのサークル句会というものに参加して、これもまた初めて選句というものを経験しました。
まだ、選句結果が出ていないタイミングで、こんなことを書いていいものか迷いましたが、私にとっては非常に楽しく勉強になったことなので書かせてもらいます。サークル句会の会員の皆さん、ご容赦を。
サークル句会というのは、簡単にいえば、会員がそれぞれ名前を伏せて俳句を投句し、それを同じ会員同士で人気投票を行う、といったようなものです。
今回は、18名の会員の方が参加し、90句の投句がありました。その中から、特選1句、入選5句を選んで投票します。
今はまだ、投票の最中で、結果はわかりませんが、投票の様子は見ることができるので、あらかた結果は見えてきたようです。
 一人で俳句を作っていると、自分の俳句がどの程度のものかさっぱりわからず、誰かに評価してもらいたい、といつも思っていますが、他人の句の優劣を判定したいとは、なかなか思いません。というか、他人の句はわからないのです。雑誌などの投句欄に出てくる俳句を見ても、どれも同じに見えてしまいます。
今回は、初めての選句ということもあって、90の俳句をじっくりと眺めてみました。
まず、気になるのは自分の句です。私は5句出したのですが、その5句が90句の中に入ると、非常に見劣りがするんですね。稚拙さを痛感させられます。
私の句を除いた85句の一つ一つをよく見ていくと、それぞれに工夫があり、手なれた感じで、うまいなあ、と感じさせられます。どれを選んでもいいようなものです。
何かテーマのようなものに縛られているわけではなく、それぞれの句が勝手に自己主張しているわけですから、それを比較して優劣をつけるというのは、非常に難しいのです。結局は好きか嫌いか、みたいなことになってしまいそうです。
そこで、私は、私なりに評価の基準を考えてみました。
 
(1)どこか気にかかる→一見して目がとまるか。心に響くか。
(2)独創性がある→発想が誰かの句に似ていないか。表現は言い古されていないかなど。

この二点に絞って、選句したのです。 一通りは目を通しているので、まず、(1)の「どこか気にかかる」をピックアップしていきます。上から順番に読んでいって、「うっ」と思ったものを選びます。この時点でピックアップしたものは、ほとんど合格ということにします。今回は3句ほどでした。
次に、残った句を(2)の基準で、もう一度じっくりとみていきます。ここでは、やはり、洗練されたうまい句が選ばれます。今回は10句ほど残りました。
さて、私の選んだ句は13句になってしまいました。この中から、特選1句と入選5句、絞り込まなければなりません。選句の難しさをつくづく感じました。
自分のような経験不足の未熟者が、はたして人が作った句を評価などしていいものだろうか、などと、ちょっと弱気になってしまいます。裁判員の心境です。結局は無理やり理由をつけて、当落を決めました。
私が特選にした句は、一見してこれは変わっている、と思ったもので、迷わず特選にしたものです。
 
プリズムの春日折り曲げ掌へ
※2009年3月に行われたスローネットのサークル句会に投稿された句を引用しています。

どなたの俳句かわかりませんので、うかつなことは言えないのですが、俳句的に見れば、切れもなく、どことなく間延びして、稚拙な感じさえします。
しかし、「春日折り曲げ掌へ」という表現が響いたのです。
どこがどうだと細かく言えないところがちょっと悔しいのですが、この感性の豊かさが、私には新鮮に映りました。類想はあまりないのではないでしょうか。
ところが、いまのところ、この句を選んだのは私だけなんですね。
ほかの方が選んでいる句もいい句だと思います。私が入選にしたものも多くの票を集めているようなので、私の選句眼が異常だとも思えないのですが、どうしたことでしょう。
ちょっと落ち込んでしまいます。
選句というのは、他人の俳句を選んでいるように見えて、自分の俳句に対する考え方や、ひいては人間性までも試されているようなものです。
そう思うといい加減な選句はできないですね。



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