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代官山・旧朝倉邸-3/欄間絵

欄間絵

欄間絵の薄暗うして秋深し

朝倉邸は、重要文化財というだけあって、襖絵や欄間絵なども多い。これは、先の河童の浮彫があった床の間横の付書院の欄間絵。もともと奥まった部屋で薄暗い所なのだが、明かり障子の上の欄間なので逆光になるため、絵が書いてあることはうっすらわかるのだが、どんな絵なのか、肉眼ではほとんど判別できない。
最近のデジカメは、こんな時に威力を発揮する。ISO感度1600、シャッタースピード1/20で見事に写った。手ぶれ補正のおかげで、それほどぶれてもいない。カシワの木に鶯のような鳥が止まっている絵であることがわかる。
板に直に描かれているようで、木目がきれいだ。鳥もカシワの葉も、写実的で丁寧に描いてある。ちょっと見、鶯のように見えた鳥も、よく見ると、目やその周りの黒い模様などが鋭く描かれていて、鶯ではないかもしれない。
素晴らしいというほどでもないが、悪くはない。もっと明るい所でじっくりと見てみたい絵だ。

欄間絵全体
▲鳥とカシワの木の欄間絵全体

この週末にずっと考えていたのだが、こうした絵や彫刻などを俳句にするというのは難しい。元々、人を感動させるために創ったものなのだから、その感動を、また言葉で語る必要はないのかもしれない。ただ感動していればいいのだ。

釣瓶落としと薄暗がりの文化財

このどうしようもない俳句の、そのどうしようもなさは、どこからくるのか。
一つには、遠くから重要文化財を見に来て、特に興味のある「絵」を観たいのに、薄暗くて見えない。その気持ちを表そうとしたため、説明的になっているにもかかわらず、舌足らずで、何を言っているのかよくわからないものになってしまったこと。
もう一つは、「釣瓶落とし」の季語が全く働いていないこと。
要するに、表現が稚拙だということなのだが、それだけではなさそうだ。
「薄暗がりの文化財」とは何か。説明にもなっていないし、何かの象徴にもなっていない。詩的でもない。表現以前の問題だ。また、「釣瓶落とし」は、この場合の季語として適切とは思えない。秋の日は釣瓶落としですぐ暗くなってしまう、といった説明になってしまっているのではないか。そもそも、こうした句に季語は必要なのだろうか。
私が俳句を作るときは、季語あるいは季節を感じさせる言葉を必ず入れることにしている。特に意味はない、約束事だ。ところが、こういう場面では迷ってしまう。何の意味もない季語を入れても、字数の無駄になる。

欄間絵の薄暗がりや秋深し

薄暗い部屋の欄間に絵が描いてある。その薄暗い空間がなぜか気になる。懐かしいような、さびしいような…、それでいて、何かそこにとてつもないものが潜んでいるような、言葉では表せない感覚。秋も深まった。
といった意味だ。前よりはいい。「薄暗がりや」の詠嘆の「や」が余韻を出しているように思える。「秋深し」も、手垢が付いている割には、それほど悪くはない。
ただ、全体としてみた時に、面白みとか、響くものがない。問題は中七だ。「薄暗がりや」は、いま一つひっかかりがなく弱い。

欄間絵の薄暗うして秋深し

「薄暗うして」は、古い言い回しだが、「薄暗がりや」よりは新しく響く。切れは悪くなったが、逆に「秋深し」とのつながりが出てきたように思う。季語とつなげる必要はないのだが、リズムのごつごつ感がなくなったのではないか。

今回は全くできが悪かった。これも欄間絵などを詠もうとしたからだと反省している。そういえば、これまで絵や彫刻を俳句に詠んだ人はいるのだろうか。そうした俳句をあまり見たことがないように思う。
といいながら、もう一つ、ちょっと気になる襖絵があって、それでも悩んでいるのだ。





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