<< 南伊豆の正月/4-河津七滝巡り(3) | main | 南伊豆の正月/4-河津七滝巡り(5) >>

南伊豆の正月/4-河津七滝巡り(4)

きらめくもの

行く路のきらめくものよ冬日向

一月とはいえ、伊豆の南端はさすがに暖かいのだろう。ところどころ青い草や紅葉なども残っていて、あまり冬という感じはしない。山の斜面を見ていくと、蔓にぶら下がった烏瓜や何やらわからない赤い小さな実、日当りのいいところでは、冬だというのになぜか木苺の実などが見つかる。
おかしなもので、日の当る所にあるものは、枯れたガクアジサイでさえも、どこかきらきらと輝いて見える。逆に、日陰にある烏瓜などは、赤い色をしているにもかかわらず、どこか寂しげだ。

木苺の実 枯れたガクアジサイの花
▲左:冬には珍しい木苺の実。右:枯れたガクアジサイの花。

この写真の赤い実は、蔓草にぶら下がっているので、草の実であることは間違いない。何の実か、見たことはあるのだが思い出さない。ただ、こんなちょっとしぼんだ小さな草の実でも、日のあたる場所にあれば、輝いて、心をときめかしてくれる。

冬山路ときめくものに日のあたる

「ときめくものに日のあたる」というのは、ロジックとして変に感じるが、実感としては当たっている。日が当たっているから心ときめくのではなく、ときめくものには、なぜかいつも日が当たっている、ということ。
ただ、この場合、「ときめくもの」という表現にはちょっと違和感がある。「ときめくもの」だと、自分の心の動きを表現することになるが、この場合は、赤い草の実そのものが、自ずからきらきら輝いていなければならない。

冬山路きらめくものに日のあたる

「ときめくもの」を「きらめくもの」に変えてみる。おそらくこちらの方がイメージに合っているが、今度は「冬山路」が気になってきた。季語にこだわりすぎて不自然だ。

天城渓きらめくものは冬日向

「きらめくものは冬日向」はいいとして、「天城渓」は苦しい。

山道やきらめくものは冬日向

さらっと「山道や」にしてみたが、平凡になりすぎた。何か象徴的な言葉はないか。

行く路のきらめくものは冬日向

「行く路」が、もろに「人生行路」を思わせて、嫌味になってしまったか?


<090203/推敲>
一夜明けてみると、この句も平凡な句に見えてきた。意図したところではあるのだが、散文的で説明的、さらっと何の引っかかりもないところが気に入らない。詩になっていないのだろう。

行く路のきらめくものよ冬日向

「は」を「よ」として、下五の「冬日向」とはっきり切り離したらどうだろうか。その方が感動がよく伝わるし、「冬日向」も生きてくるように思う。
次の句、「行く路のさびしきものは冬日陰も同様に、

行く路のさびしきものよ冬日陰

とする。





コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
トラックバック
calendar
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    
<< April 2019 >>
selected entries
categories
archives
recent comment
                
links
profile
search this site.
others