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夏の終わり

夏終わる

輝ける夏の終わりは無口なり

動物園の広場にある噴水。ミスト状に吹き上げる水に木漏れ日が当たって輝いている。幻想的な光景に思わずカメラを向けてシャッターを切ったとたん、ファインダーの横から少女が飛び込んできた。ファインダーを覗いていたので、少女が歩いていたことに気がつかなかったのだ。
失敗したと思い、もう一度、噴水だけの写真を撮った後、画像を確認してみると、少女の入ったショットがいい感じに撮れている。偶然とはいえ気に入った。

少女らは無口になりて夏終わる

ぱっと浮かんだ句だ。写真の雰囲気が、夏の終わりを感じさせる。少女のシルエットが物憂い感じを醸し出している。句は、写真の感じとマッチしているように思えるが、表現が常識的かもしれない。「少女ら」の「ら」も気になる。

輝ける夏が終われば大人びて

この句を、写真抜きで見た場合、よほど想像をたくましくしないと意味がわからない。「大人びて」とはどういうことか。
写真俳句でいつも悩むのは、写真と句の役割だ。写真は目に見える世界、いわば実の世界であって、言葉で説明されなくてもわかる。とすれば、俳句は、写真から触発された目に見えないイメージの世界、作者の心の中にある虚の世界を表現すべきではないのか。

普通、俳句は実際の情景と心象風景を衝突させることによって成り立っているように思える。実の世界と虚の世界が絶妙に衝突し融合した時に、そこに一つの実でも虚でもない世界が創造される。
ところが写真俳句の句は、句だけを取り上げて見れば、まったくわけのわからない状態になってしまう可能性が大きい。写真と一体となってはじめて一つの世界が完成することになる。その兼ね合いがいまだにつかめないのだ。

いずれにしても、この句は、イメージを説明して解説している。一夏の素晴らしい体験を通して、この写真の少女は、急激に大人になっていく、といった、観念の世界に入っているような気がする。

輝ける夏の終わりは無口なり

「輝ける夏」と言うのは観念的言葉だが、前よりは詩に近づいたかもしれない。「無口なり」といった、感想ではないある種の事実の断定が、観念の世界に陥ることから救っている。
これならば、たとえ写真がなくてもある程度感じることができるし、共感も生まれそうだ。
「輝ける夏」とは何か、もう少しはっきりすれば、もっと良くなりそうな気がするのだが・・・。





コメント
こんにちは。このショットは本当に、撮ろうと思ってもなかなか撮れないものだと思います。すごい瞬間に居合わせましたね。

素晴らしいプレゼントだと思います。

私は先週末1泊ですが、2000m位の山へ。その前は2300m位の山へ家族で登ってきました。1500m〜1700m位までの山小屋までが割と大変。その後は山の頂上近辺を歩くのですが、大変な気持ちの良さです。大地を見わたせること。雲も大気も山の高山植物も、岩も、何もかも新鮮に感じられます。

太田さんも、何もせずのんびりする時間を過ごされたとのこと。どうぞ、お体を大切に益々素晴らしい作品を期待しております。

(お元気出してくださいね。お嬢様が嫁がれて、少し、、、時間がかかるのかもしれませんね。)
  • しろくま
  • 2009/08/20 2:09 AM
しとくまさん、こんにちは。

山は2000メートル程度がちょうどいいですね。田舎の月山のお花畑は、1800メートル付近にあるのですが、今頃はちょうど一面花盛りで、さわやかな頃です。

娘が家にいないというのは、なんか妙な感じです。妻と二人だと、どうも気を使ってしまいます。
  • 無一
  • 2009/08/21 11:01 AM
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