不条理にあなたの葛が枯れてゆく
これは、花見川を遡ったときに、地震の爪痕に咲いていた葛を詠んだもの。
わかりづらいので、解説すると(解説してしまったら、手品の種明かしのようでつまらないのですが)、
「不条理」と言うのは、人間の愚かさを象徴的に表現したもので、
「あなた」は、大自然のことです。
福島の原発事故を念頭に置いて作ったもので、私が考える俳句からは、ちょっと逸脱し、川柳に近いものになりました。
さて、このところ、俳句が低調です。
ちょっと気を引き締める意味で、しばらくは、俳句について考えて見たいと思います。
文章を書くのは非常に疲れるので、考えがある程度固まっていることについては、以前、他のブログに書いた文章を、若干修正しながら、掲載しようと考えています。
●写真俳句を始めた頃
もともと野の花の写真を撮るのが趣味でしたが、3〜4年前、写真俳句というものに手を出すようになりました。
ただ花の写真を取っているだけでは面白くなかったからです。
初めて写真に俳句を付けた時は、何も迷うことなく、すらすらと作ることができました。
それまで俳句と言えば、芭蕉や蕪村や一茶や子規などの教科書に出てくるようなものしか知りませんでしたし、もちろん自分で作ったことなどありません(小学生か中学生の頃、授業で作らされたような覚えはありますが)。
それなのに、写真に俳句を付けたらかっこよく見えるのではなどと考え、何の疑いもなく俳句を作ってしまったのです。
なぜ俳句かと言えば、本当は、詩とか短歌でもよかったのですが、詩はちょっと恥ずかしいし、短歌は難しそう。俳句は短くてすぐできるかも……などと気楽に考えたからでした。
今考えてみれば、怖いもの知らずで無謀なことでした。
残された日数数える破蓮
というのがそれです。句の良し悪しは別として、これを川柳だとか標語だと言う人は誰もいないでしょう。紛れもない俳句です。
そんな俳句を何の疑問もなく作っていました。しかし、それから俳句に関する本などを読み始めたり、俳人と言われる人の俳句を見たりしているうちに、だんだん俳句が作れなくなってきました。
俳句と言うものに疑問を持つようになったのです。
俳句の本に掲載されている数え切れないほどの俳句を見て、どれがいいのか悪いのか、さっぱり見当がつきません。
絵であれば直感的に良し悪しがわかるのですが、俳句から感動を受けることは皆無と言っていいほどありません。
これが俳句なのだろうか。そんな疑問が次々と湧いてきます。そうなるともう、俳句を作ることが苦痛になり、迷い、ストレスになっていきます。
それでもやめられないから不思議です。(続く)