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俳句について(2)現代俳句の本質-1

ピンクの傘

コスモスの果てをピンクが振り返る

以前作って置いて掲載するチャンスがなかったもの。時期を失してしまいそうなので。
ピンクの日傘がポイント。

◆  ◆  ◆

俳句について(2)現代俳句の本質
 
山本健吉氏は「俳句とは何か(角川文庫)」の中で、俳句の本質とは「挨拶・滑稽・即興」であると書いています。
俳句の本質という微妙な言い方をしていますが、本質と言うのは、そのものが持っている本来の姿で、ずっと持ち続けているもの、それが欠けたら俳句とは言わないといったものであると思います。
そういう意味では、「挨拶・滑稽・即興」というのは、俳句(発句)の歴史的事実ではあり、昔の俳句を鑑賞するときには大いに参考になります。が、俳句とは何かと問われた時、「挨拶・滑稽・即興」であるというのは、間違っているように思います。
このことは、俳句を作ろうとしている人にはほとんど役に立ちません。
例えば、俳句は挨拶である、と言われても、江戸時代ならいざ知らず、今、それは違うでしょう、ということになります。
滑稽とか即興という言葉は、挨拶という考え方から生まれた派生的な要素です。俳句を挨拶と考えるからこそ、滑稽や即興が要求されるのです。
私は、本質と言うものを、そのものが持つ歴史的な事実として捉えるのではなく、そのものが持つ構成要素として考えました。つまり、俳句を作る上でどんなことに注意しなければならないか、といった、ハウツウというか、極意のようなもの。言わば、俳句のチェックポイントのようなものを考えてみたのです。
これこれこういう要素を含んでいる場合は俳句であり、それを含んでいなければ俳句とは言わない、というようにです。そのほうが俳句を作る場合に便利です。
これは俳句だ、とか、これは俳句じゃない、とかよく言います。その俳句か俳句じゃないかの境目をはっきりさせることこそが重要で、それが、俳句の本質につながるものだと考えます。

山本健吉氏に逆らうようですが、まず、結論を先に言えば、現代俳句の本質は「アイデア・エスプリ・レトリック」であると考えます。
その理由を、少し詳しく説明します。

●現代俳句の本質(1)アイデア

まず、「アイデア」です。「アイデア」を辞書で引くと「思いつき。新奇な工夫。着想。」などと出ています。
俳句に限らず、何かを作り出して人を感動させるためには、人と同じことをしていてはだめです。同じことを繰り返していては、月並みになってしまい、常識的で驚きのないものになってしまいます。
俳句など、実用性のないものを作るときは特にそうです。他人と同じものを作るのでは、作る意味がありません。新しさや変化が要求されます。それが「アイデア」です。
「アイデア」といっても、辞書で言うような「思いつき。新奇な工夫。着想。」ではなく、もっと広い意味で考えます。
写真俳句で言えば、写真の素材選びや写真と俳句の組み合わせなどもアイデアのうちに入ります。独創性とか芸術性などです。
アイデアは驚きや感動にもつながります。アイデアのない俳句ほどつまらないものはありません。
世の中には俳句が氾濫していますが、私にはどれも同じように見えて仕方がありません(私の俳句も含めてです)。
その原因のほとんどは、アイデアがない、といことです。例えば、花鳥諷詠といったお題目の元、季題などを与えられて、体験も感動もなく俳句を作るなどと言うことが現実に存在することが信じられません。そんなところにアイデアを望むことはできないでしょう。
アイデアのない五七五は、ただの17文字のレポートとか感想文で、俳句とは言いません。感動や悲しみを他人と共有するためには、その突端となる切り口のアイデアが必須です。
アイデアに乏しい俳句には、誰も興味を持ってくれません。

●現代俳句の本質(2)エスプリ

エスプリという言葉、いかにもフランス語らしい、わかるようでわからない、非常にあいまいな言葉です。この「エスプリ」を辞書で引いてみましょう。「精神。精髄。」「機敏な才気。機知。」と出てきました。私はここに「詩心・ユーモア・しゃれっ気・ちゃめっ気・遊び心」といった言葉を付け加えようと思います。
俳句は散文ではなく詩です。
事象の説明や主義主張ではありません。
17文字と言う限られた字数の中で表現する感性です。
俳句と非常によく似た定型詩に「川柳」があります。俳句と川柳の境目は非常に微妙で、私もときどき川柳に迷い込んでしまいます。
俳句と川柳の違いは、先にも書きましたが、もう一度ここで復習します。
私は川柳も詩の一つだと思っているのですが、俳句との違いは何かと言うと、俳句が抒情詩だとすれば、川柳は叙事詩であるということです。
俳句は主観的で、常に自分を見つめていますが、川柳は傍観者的で、常に社会を見つめています。
俳句は内へ内へと向かいますが、川柳は外へ外へと向かいます。
俳句は精神性を重視し、時には抽象的で意味を持たないものですが、川柳は常に社会とかかわりを持ち、理知的で、時には社会を皮肉り、笑い飛ばします。
「エスプリ」は、単なる機知ではなく「詩心」であると言いました。そこには「心」があります。自分の心、つまり感性です。
理屈ではない、説明の必要もない、ただ感じるだけのこの「エスプリ」こそが川柳との大きな違いです。
「エスプリ」は、内に秘める力で、あまり声高に叫ぶものではありません。時にはユーモアとなって微笑ませることもあります。その内なる力が、俳句の魅力となって見る人を魅了します。

●現代俳句の本質(3)レトリック

これも辞書で調べてみましょう。
「修辞法。また、修辞学。」と出ていました。まったくわかりません。さらに「修辞」を調べてみると、「言葉を美しく巧みに用いて効果的に表現すること。また、その技術。レトリック。」と書いてありました。
(言葉を調べるのに、「レトリック=修辞法」とあって、「修辞法=レトリック」という説明では、何も説明していないのと同じです。辞書っていい加減ですね。)
それはさておき、レトリックには、暗喩だとか直喩だとかいろいろあって非常に難しいのですが、要するに表現技術のことです。
俳句では、たった17文字しか使うことができません。世界で一番短いと言われている詩です。
やってみればわかりますが、17文字では何も言えないのです。順序だてて説明したり、説得したり感情をむき出しにしたりすることは不可能です。
そこで昔からいろいろなテクニックが使われてきました。
本歌取りとか季語などのように、短い言葉からその裏にある深い意味を連想させるようなテクニック、また、切れ字や取り合わせによる二物衝突から生まれる余情や間を生み出すテクニックなどはその一つです。
もちろん、擬人法とか比喩、倒置などのテクニックもさかんと使われていました。最近では言葉をコラージュすることで新しい世界を生み出そうとするてテクニックなども生まれています。
中には使われすぎて陳腐に感じるものもあります。
同じことを詠んでも、一文字変えるだけでまったく違った世界の俳句になる場合も多くあります。
とにかくものを言えない俳句では、レトリックは、非常に重要な本質(チェックポイント)です。

長くなってしまいました。続きはまた明日。<明日へ続く>



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