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俳句について(3)なぜ俳句なのか-1

抜け道

抜け道や秋風抜けて船抜けて

散歩で海へ抜ける時の近道。いつも釣り人や潮干狩りなどをする人たちが通るので、 道は踏み固められ、けもの道というよりも道路です。
いつものように、ここを通りかかったときに、たまたま船がこの破られた空間を通り過ぎました。瞬間のことだったので、シャッターを切れたのは2枚だけ。その最初の一枚です。

◆  ◆  ◆

これからしばらくは、私はなぜ俳句を作るのか、短歌や詩ではだめなのか、といったことについて話します。

俳句について(3)なぜ俳句なのか

●俳句の動機

俳句に関するいろいろな本を読んでいると、例えば、有名な俳人が俳句を作ろうとした動機は、人それぞれです。ただ、共通しているのは、みんな若いときから俳句を作っていると言うことです。
自分がそうだから思うわけではないのですが、俳句と言うのは、どこか老人の趣味で、会社を定年退職したような人が、暇をもてあまして作る、というようなイメージを持っていました。
ところが、現代の俳人は、学生時代とか、早い人は中学生の頃から俳句を始め、若くして名をなしている人が多いようです。
考えてみれば、俳句も文学です。十代の少女が芥川賞を受賞する時代です。俳句も、感受性に優れた若い人が優れているのは、当然と言えば当然です。
高名な俳人の俳句をはじめた動機は、

(1)親や兄弟が俳句をやっていたため、自然と俳句を作るようになった
(2)中学、あるいは高校の頃に友達に誘われて俳句をやるようになった。
(3)たまたま、学校で俳句を習い、何かに応募したら当選してしまった。
 
特に多いのは(1)のようで、環境なのか才能なのか、蛙の子は蛙ということなのでしょう。
さて、振り返って自分を見ると、 ・ようやく仕事から解放され、時間をもてあまし気味なので、何かを始めたい。 ということがまず、前提としてあって、その上で ・写真でも撮ろうか→写真はただ撮るだけだから簡単→それではあまりにも簡単すぎるから俳句でも付けよう。
ということで、「俳句でも」という、俳句でなくてもいいわけで、いわばどうでもいい感じで始めたことになります。
高名な俳人とはすでにこの時点で大きく差をつけられていることになりますね。
ところが、もともと熱くなる性分なので、やり始めるとのめりこんでしまう。
だからといって、俳句教室とか結社などというものには興味がありません。一方的にテーマを押し付けられたり、自分の作品を勝手に変えられたりすることに耐えられないからです。
頼るのは、先達の俳人の句と俳句関連の本、それと自分の感性だけです。
最初のうちは、何の迷いもなくどんどん作れてしまいます。こんな簡単に作れていいのだろうか、と思うほどです。
ところが、あるときを境に迷い始めてしまうのですね。自分の俳句がつまらないものに感じるのです。どこが新しいのか、人と同じではないか。俳句を作る意味があるのか。そう感じたのは私の場合は、俳句を始めて二ヶ月ほど経った頃でした。
それから、俳句を作ることが苦痛になったのですが、またある日、突然、俳句と言うものがわかったような気がしたのです。
後でそれは錯覚にすぎないことがわかったのですが……。それが

バッハでもモーツアルトでもなく冬の音  無一

という句です。この句が浮かんだときは、これはできたのではないか、と思いました。これこそ俳句だと。
うれしくなって、これを誰かに見せたいと思い、ネットでいろいろ調べた結果、NHKにフォト五七五というものがあることを知り、応募したところ、サイトで紹介されたのです。
写真俳句にのめりこむようになったのはそれからです。

なぜ俳句でなければならなかったのか。この続きはまたあとで。(続く)



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