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俳句について(3)なぜ俳句なのか-2

竹の春

さやさやとささやく秘密竹の春

逆光をあびて、竹の葉が輝いています。
竹の春という季語は今頃ではなかったかと歳時記を見ると、ありました。
竹は筍の生えるころに落葉し(この時期を竹の秋と言います)、秋になると筍が育って葉を茂らせ鮮やかに輝くのだそうです。
確かに、「竹の春」とはよく言ったもの、この柔らかい緑がなんともいえません。

◆  ◆  ◆

●本から学んだこと

当時(といっても三年ほど前ですが)は、俳句が楽しくてたまりません。次々と本を買っては読み、俳句の何であるかを知ろうとしました。
その中で共感したのは、小西甚一氏の「俳句の世界(講談社学術文庫)」でした。
先に読んだ山本健吉氏の「俳句とは何か」は、読んでいてまったく理解できなかったのですが、この本は、何となく言っていることがわかるのです。
俳句とは俗の文学だということを、すんなりと受け入れることができ、自分がこれからやろうとしている俳句というものが、それほど無意味なものではないと思うようになりました。
興味を持つということは不思議なもので、次から次へと興味の幅が広がっていくのですね。
江戸時代の俳諧の世界でいえば、芭蕉、蕪村、一茶は勿論、「蕉門の人々」など、芭蕉の周囲の人々の句にも、一通り目を通してみました。
明治ではやはり、正岡子規。その周辺のいわゆる日本派と呼ばれる人たち。そして虚子とホトトギス。新興俳句といわれる俳句から、飯田龍太などの現代まで、手に入る本は手当たりしだい読みました。というよりも短期間に乱読した、という方が当たっているでしょう。
中にはつまらないものもありましたが、非常に役に立ったり、興味をひかれたものもあります。
前述した、小西甚一氏の「俳句の世界」は、俳句の歴史や変遷を知る上で非常に参考になりました。
それまで俳人といえば、芭蕉、蕪村、一茶、子規、虚子などで、それも名前を知っている程度でした。虚子などは本当に名前だけで、代表句は何かといわれても全く知らない状態です。
そういう意味では、この本は、私に俳句の道を開いてくれた本でした。
 
印象に残って、何度も読み返した本といえば、まず、河東碧梧桐の書いた「子規を語る(岩波文庫)」です。
これは、子規の人間性を知る上で、非常におもしろいもので、子規の伝記や著書とはまた違う、子規を見る思いがしました。
子規の「病床六尺」などに、盛んと虚子とか碧梧桐の名前が出てきますが、河東碧梧桐がどんな人かを知ったのは、この本からでした。
碧梧桐が子規をどれだけ尊敬していたか、この本を見れば涙が出るほど明らかです。どうしても虚子よりも碧梧桐びいきになってしまいますね。
明治の文学青年が俳句にのめりこんでいく様子がよくわかり、非常におもしろく読みました。

もう一つ、これは、俳句を作る姿勢を学んだということで、忘れられない本があります。飯田龍太氏の「俳句入門三十三講(講談社学術文庫)」です。
恥ずかしい話ですが、私はこの本を読むまで、飯田龍太という名前さえ知りませんでした。父親の飯田蛇笏氏は、現代俳句関連の本にはちょくちょく出てくるので名前と若干の作品は知っていたのですが、息子がいて、俳句をやっているなどというのは全く知らなかったのです。
ところが、私にとっては無名のこの息子さん、なかなかいいことを言うんですね。いっぺんに虜になってしまいました。
言葉の一つ一つに、品がよくやさしい、氏の人間性が出ていて、俳句とは詩だということを、何度も教えてくれます。
俳句が作れなくなった時、迷った時、何度も読み返しました。そういう意味で、この本は、私に夢を与えてくれた本です。この本がなかったら、とっくに俳句はやめていたかも知れません。

なぜ俳句なのか、なかなか本題に入れませんが、長くなりそうなので、この続きはまた後で。(続く)



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