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俳句について(4)類想・類句について-2

秋の湖

背負うもの人それぞれの秋の湖

湖の一か所にボートが集まってきました。
仲間ではないようです。釣りのポイントなのでしょう。 
どうしてこんな日に、しかも、働き盛りで家庭も持っていそうな中年が、
家族を残して、わざわざ釣りに来るのでしょうか。
接待ゴルフなどとは、動機が全く違うようです。

……それはさておき。

◆  ◆  ◆

(2009/03/26スローネット投稿)

類想・類句が出てくるのは、俳句の構造や性質上、やむを得ないこと、避けられないことなのでしょうか。
類想・類句が出てくる背景を考えてみると、いくつかのパターンがあるようです。
すぐに思い当たるのが、最高の表現は一つしかない、という考え方。最高の頂点に向かって進むのだから、たとえ道は違っても、頂点に近づけば近づくほど、似てくるのは当然のことだという考え方です。
これは、俳句初心者よりも上級者に多いのではないでしょうか。上級者の多くの俳句はうまいと思わせるな「なにか」を持っていますが、その「なにか」が実は曲者で、みな似ているのです。

よく、いい俳句は、言葉をどう動かしようもない、などといいます。例えば、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」という句、これは、「古池」も「蛙」も「水の音」も、どれも動かすことができない言葉だと言われています。
たしかにそうかもしれません。それでは、この芭蕉の句が、蛙の句の頂点かといえば、そうとも言えません。世の中には蛙を詠んだ句はたくさんあるはずで、それがみな、芭蕉の句と同じになってしまう、などということはないわけです。
なぜかといえば、表現というのは無数にあって、これしかない、これが最高の表現だ、などというものはないからです。
人それぞれ、生まれ育ちの環境、時代によっても変わってくるし、時には、同じ人でも今日と明日では微妙に変わってきます。
それでは、表現の評価の基準はどこにあるかといえば、それは非常に難しいのですが、最低の評価基準として一つ言えることは、その表現が斬新であるかどうかということです。
芭蕉のこの「蛙」の句のどこがいいかといえば、その斬新さであると思うのです。それまで、「蛙」といえば、その鳴き声を詠む場合がほとんどで、池に飛び込む水の音を詠む人などいなかった。そこが非常に斬新だったわけです。
もし、芭蕉が「蛙」は鳴き声を賞味するものだ、という既成概念にとらわれていたら、この句はないわけで、また、もし、そうした既成概念で「蛙」の句を作ったとしたら、それは数多ある蛙の類想・類句として消えていったでしょう。
その斬新さを強調するために、上五に何と置くか、芭蕉はさんざん悩んだらしい。其角は「山吹や」と置いてはどうかと進言したらしいのですが、結局、芭蕉は「古池や」と平凡に置いた。これがこの句の斬新さを際立たせることになったのです。
仮に「山吹や蛙飛び込む水の音」として、それはそれで十分に印象に残るいい句だとは思うのですが、「蛙」に「山吹」の取り合わせは、当時としては常識だったようで、いわば類想と言えるものです。
それに、肝心の「水の音」がかすんでしまい、「蛙」ではなく「山吹」が主役の句になってしまうのです。
つまり、「蛙」の句は、どの言葉も動かしようがないのではなく、動かしてしまったら全く違う俳句になってしまう、ということなのでしょう。
動かしようもない言葉などというものはなく、動かすことによってどう変わるか、を見極めることが大切です。それによって類想・類句を避けることが可能になります。
既成概念にとらわれずに、発想や言葉の表現は無限にあると考えれば、類想・類句を避けることはそれほど難しいことでもないようです。

<類想・類句を回避する方法/その1>

●既成概念にとらわれず、発想や言葉の表現は無限にあると考える。



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