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俳句について(4)類想・類句について-3

雨の湖畔

紅葉半ば雨蕭蕭と湖水打つ

中禅寺湖畔は、紅葉半ばにして、冬間近を思わせる冷たい雨に煙っています。
水墨画を見るような趣。五言絶句の漢詩が似合いそうな風景です。
漢詩は到底無理なので、漢詩風俳句というのはどうでしょう。

◆  ◆  ◆

(2009/03/30スローネット投稿)

類想・類句に陥る二つ目のパターンは、季語にこだわるという考え方です。
 俳句とは、五七五の有季定型詩であるとはよく言われることです。季題・季語や季感がなければ、俳句とは認めない人たちもたくさんいます。それほど、俳句にとって季語は重要なものです。
季語とは、季節を象徴的に表す言葉です。ここに今、資料などは何もないので、間違ったことを言うかも知れませんが、私が理解しているところで言えば、もともと、季語というのは連歌や俳諧から発生したもので、それが引き継がれ蓄積されたものです。
連歌や俳諧は、そのほとんどは、複数の人が一か所に集まって、共同で作る文学ですから、挨拶が重視され、特に発句には季節を表す言葉を入れる、ということがしきたりのようになったということでしょう。
そうした中で、季節を象徴的に表す言葉が厳選され、季語として定着していったものと思われます。ですから、季語には、数百年にわたって蓄積された人間の感性や知恵が詰まっている、といっても過言ではないのです。
例えば「桜」という春の季語。この「桜」という言葉は、「桜」と言うだけで、そこに込められた意味や感性は、ほとんどの人が理解できるため、説明する必要はありません。つまり、「さくら」という、たった三文字の中に、誰でもが認識している膨大な情報が蓄積されていることになります。
一言で季節を表し、また、作者の感性や心情までも表現する便利な言葉、それが季語なのです。
それほど便利な季語なのですが、逆に、その季語を使ったために、その季語に縛られて身動きできなくなる、ということもあります。
イメージが強烈で、人によく使われる季語ほど、そうしたことが多く出てきます。要するに使い古されて手垢がついた、というものです。
そうした手垢の付いた季語を使って句を作ると、どうしても類想・類句に陥りやすくなります。
よく使われる季語というのは、それだけ俳句の数も多く、目につく機会も多いため、どこか頭の隅に俳句の断片が残っているということがあり、自分でも気がつかずに使ってしまう、ということもあります。
また、多くの人が類想・類句を避けるために、あらゆる状況、情景を詠むわけですから、自分ではまったく新しい発想だと思っていても、実はすでに詠まれている、ということもあります。

もう一つ、季語によって類想・類句に陥りやすいのは、よく句会などのテーマとして、季語が出題されることです。
私は経験がないのでよく知りませんが、いわゆる「題詠」とか言われるものです。
季語をお題として指定され、実感や体験などとは関係なく、想像力で俳句を作るわけですから、自ずと観念的な句になりやすく、どこかにありそうな句になってきます。あるいは強引な取り合わせなどで逃げるような句になりがちです。
私は今、このスローネットのある方の歳時記コーナーに、題詠による俳句をときどき投句しています。それは、まだ俳句の初心者で、季語を覚えるという意味と、想像力を養うという意味からなのですが、実際に自分が体感したことではないので、どこか嘘っぽく、どこかで聞いたことがあるようなものを量産してしまいます。
人間の想像力などというのは、経験の積み重ねから生まれるわけですから、過去に見たものに似てくるのは当然なのです。
新しいものというのは、体験による感動と想像力によって生まれるもので、感動のないところからは何も生まれてこないのです。
 季語が類想・類句を生むというのであれば、季語を使わなければいいのか、というと、そういうことではありません。自分の今の感動を俳句にすれば、季語を意識的に使わなくても、そこには自ずと季感というものは出てくるものです。
なぜかといえば、人間の感情の多くは季節に左右され、作者はその季節に身を置いているからです。
私は、最初はまったく歳時記は見ません。推敲の段階になって初めて歳時記を見るようにしています。そうすると季語が重なっていたり、季節が違う季語が使われていたりすることが度々あります。
直してもいい場合は、できるだけ直しますが、直してしまうと感動が薄れてしまう場合は直さないことにしています。
例えば、春、辛夷や桜の花にはひよどりがよく来ます。花を食べるためです。そこが面白く、ひよどりの句を作ったりするのですが、歳時記を調べると、ひよどりは秋の季語になっています。ひよどりを春に詠んだのではおかしなことになってしまいます。
また、今日も実はムクドリの句を作ってしまいました。この時期、ムクドリは地面に降りてきて、しきりに土をほじくり返します。そこが面白いので、例えば「椋鳥や」などと作るわけですが、俳句の常識からいえばおかしな句になります。
私は、基本的に俳句は有季定型であるべきだと思っていますが、季語にこだわる必要はない、とも思っています。
歳時記に載っていなくても、季節を表す言葉であれば、季語だと思います。もともと季節などというのは、沖縄と北海道では違います。そこまで極端でなくても、例えば私の故郷である東北の日本海側と東京では、春という感覚が全く違います。
桜も桃もマンサクも水仙も、雪が解ければ皆一斉に咲く感覚ですから、必ずしも歳時記に書いてあるようにはいきません。

ここで、ちょっと説明不足で強引ですが結論です。
季語にこだわるから、その季語の呪縛から逃れられなくなるのであって、季語を無視すれば、もっと自由な発想が得られるはずです。

<類想・類句を回避する方法/その2>

●季語にこだわらず、実感を重視する。気重なりや季のずれをあまり気にしない。
 


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