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俳句について(4)類想・類句について-4

思春期

思春期は六十年の秋の棘

鉄条網を見ると、安保とヘルメットを思い出します。
また、この写真を見ていたら、なぜかジャスパージョーンズが描いた星条旗を思い出してしまいました。
1960年、何も知らずに飲み込んで、喉に刺さった棘が、未だに抜けないような……。
ひょっとして、喉頭がんはそれが悪化してできたのかも? 

◆  ◆  ◆

類想・類句について、今日、また一つ思いついたので書いてみます。

(2011年10月16日)

類想・類句に陥る三つ目のパターンは、「俳句らしさ」にこだわるという考え方です。これは、初心者に必ず見られる特徴で、類想・類句につながるもっとも大きな落とし穴です。
俳句を始めた頃は、どうしても俳句らしく作ろうとします。俳句らしさとは何かと聞かれてもわからないのに、とにかく俳句らしく作りたい。「や」とか「かな」などという言葉を使ってみたくなったり、「いのち」とか「生きる」といった言葉を使うと、何か高尚な俳句を作った気分になります。
俳句雑誌の投稿欄を見ると、同じような言葉がいくつも見つかり、また、いくつかのパターンに分けられるようです。

例えば、湖畔や海辺では、ほとんどの人が「佇み」、そして大概それは「一人」です。それも夕暮れ時が多いようです。
柿の木にはいつも赤い柿がたわわに実っているか、あるいは一つぽつんと夕日を浴びています。
故郷は、誰でも遠くにあって、遠い日のことや、やさしい母の姿を思い出します。
蝉は命の限りに鳴き、コスモスは可憐に風に揺れています。
どうしてみんなこうなるのかというと、これが俳句らしいと、俳句初心者の多くが感じているからではないでしょうか。
こうしたパターンにはまってしまうために、多くの類想・類句が生まれるのでしょう。
ところが、よく考えてみれば、大きな勘違いをしているのであって、多くの人が「俳句らしい」と思っている言葉の多くは、実は演歌やヒットソングの歌詞だったりするのです。
試しに、例えば芭蕉や蕪村などの俳句をぱらぱら見ても、「俳句らしい」と思われている「命の限り」とか「生きるため」とか「一人佇む」などといった言葉など一つも出てきません。
 
そもそも「俳句らしさ」とは何でしょうか。「俳句らしさ」なんてあるのでしょうか。
「俳句になっている」とか「これは俳句じゃない」とは、よく聞く言葉です。しかし「俳句らしさ」なんていう言葉は無いと思います。
「俳句らしい」というのは、「俳句のようではあるけれども俳句ではない」と言う意味にも取れます。うわべだけを真似た偽物と言うことになります(冗談です)。
「俳句」と言うからには、もちろん「俳句らしさ」というのはあるのでしょうが、それはパターン化できるものではなく、もっと深い何か、誰もまだ正確に定義づけていない、よくわかっていない何かなのだと思います。
少なくとも、「いのち」とか「生きる」とか「佇む」とかではありません。もし、そういう言葉が浮かんできたら即座に打ち消すべきです。そうじゃないと、間違いなく、何千万、何億という駄句の一句になってしまいます。
例えば「柿」を俳句にしようと思ったら、まず「赤い」「たわわ」「夕日」「ひとつ」と言った言葉は絶対に使わない、といった心構えが必要です。
そうしたことはわかっていながら、私はいまでも、慣用句や常套句を使ってしまうことがあります。
手拍子でスラスラ出てくる言葉は、大概そうした言葉です。特に感情が高ぶっているときなどは、自分がそうした言葉を使っていることすら気が付かないことが多いのです。
俳句を作ったら、必ず時間をおいてから推敲すること。作った時には気が付かなかったことに気付くことが多いものです。

<類想・類句を回避する方法/その3>

●「俳句らしさ」など気にしない。慣用句や常套句は無視して、感じたことを自分の言葉で表現する。



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