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俳句について(7)俳句の挨拶性

なるように

なるようになると笑った赤まんま 

外出から今帰ってきたところ。
今日は俳句を作る時間がなかったので、数日前に作って、まだ悩んでいる句を載せてみます。
悩ましいのは、単純すぎて、含みもなければアイデアもないこと。

対抗馬は、今のところ

振り向けば流されてゆく赤まんま

その昔水に流した赤のまま

頬染めてなるようになると赤まんま

といったところですが、どれも感情に流されすぎていてベタ。
もっとクールに行きたいところなのですが。

◆  ◆  ◆

季語についての考察も、今日は間に合わないので、過去の駄文でお茶を濁しておきます。

俳句の挨拶性
(2009/03/27 「俳句」四月号を読んで)
 
昨日、本屋で「俳句」四月号を手にしたら、「俳句の挨拶性を見直す」という大特集が載っていたので、つい買って読んでしまいました。
前半が過去の俳人の挨拶性の考察で、後半が現在活躍している俳人の方の「私の挨拶句」というエッセイになっていました。
何気なく読んでいると、なるほど、と思わされることばかりでしたが、私は、つい最近、俳句の挨拶性について考えたばかりで、しかも否定的な結論を出しているので、いろいろ気になることもありました。

まず、タイトルの「俳句の挨拶性を見直す」。「見直す」ということは、一時は重視し、その後、軽視されてきたけれども、もう一回重視しようではないか、ということだと思います。
俳句の挨拶性を重視したのは、山本健吉氏が最初ではないかと思いますが(昔から言われていることかもしれませんが、そのことを詳しく論じたのは山本氏ということです)、私はそのことに少し疑問を感じていました。
山本氏が言う「俳句は挨拶だ」という考え方はは、俳句の一面をとらえてはいますが、単に過去の俳諧がそうしたものだという認識にすぎません。挨拶性が俳句のすべてではないし、ましてや到達点ではありえないはずです。
ところが、今回の特集は、「俳句は挨拶である」と断定し、それを前提として組まれています。すべての執筆者が、何の異論もなく、俳句の挨拶性を肯定する文章を書いています。
俳句は人や自然に対する挨拶だ、というのはまだいいとして(そうした面もあるので)、俳句は自分への挨拶だという考え方や、俳句は存問だ、という虚子のような考え方は、俳句を自ら低めるようなものではないかと思います。
そこに誰も疑問を挟まないのが不思議でした。
私は俳句の挨拶性を否定するものではありませんが、俳句を「挨拶」という言葉でひとくくりにするような考え方には賛成できません。
例えば、芭蕉は、ほとんどの句を挨拶として詠んでいるようです。今回の特集にも書いてありましたが、

 五月雨をあつめて涼し最上川

などは代表的な例でしょう。しかし、芭蕉はこの句を後で、

 五月雨をあつめて早し最上川

と改めました。なぜでしょうか。
ここに、俳句は挨拶が到達点ではない という証明があるのではないでしょうか。
芭蕉は、俳諧の席では挨拶を重視した発句を詠みましたが、あとでその発句を直している例がいくつかあるようです。
芭蕉は、挨拶を重視したその発句をよしとしなかったわけです。挨拶ではない、何か別のものを求めていたことになります。
 「俳句は存問だ」などというところに留まっていたのでは、第二芸術と言われても仕方がありません。むしろ、挨拶性などということを否定することで、俳句の新しい方向が見つかるような気がします。

今、なぜこの特集が組まれたのか、まったく理解に苦しみます。
俳句は、いつか来た道を後戻りし、ますますサロン化していくようです。



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