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俳句について(6)季語を考える-4

紅葉雨

雲走り秋色湖(うみ)に滲みだす

赤城山大沼。湖上を雲が激しく行き交います。
一面雲に覆われたかと思うと、さ〜っと雲が引いて鮮やかな紅葉が浮き上がるといったことの繰り返し。
雲が走るたびに紅葉は風に流され、湖に散って、山はみるみる色があせて行くようです。

◆  ◆  ◆

季語を考える-4
(2011年10月22日)

●季語の必要性

俳句に季語は、なぜ必要なのか、ということをちゃんと説明できる人はいるでしょうか。
季語の成り立ちについては、先に少しふれました。つまり、連歌の発句は、もともと仲間に対する挨拶の意味があったので、その時の季節を詠み込むことが慣例のようになっていて、いつの間にかそれが約束事になっていたということです。

 季語がなければ俳句ではない、という人たちの多くは、その理由として「約束だから」と考えているようです。
俳句は季の挨拶である、そういう約束の上に俳句は成り立っているので、季語を入れるのは当然だ、という考え方です。
しかし、それは連歌の発句のことであって、正岡子規以降、一句として独立した俳句では、挨拶性などは希薄になっています。連歌の約束事など、現代の俳句に適用することはないのではないか、という考え方もあり、季語の根拠は揺らいできました。
俳句に季語は必要なのは「約束だから」、「約束は守らなければならないから」と言うだけでは、非常に説得力に欠けるようです。
 
一方で、「俳句は季節を感じる詩である」という考え方があります。
日本には四季があり、日本人は昔から微妙に移り変わる季節に敏感に感応してきました。
季節から触発される感性や感情は、詩的感情にまで高まって、俳句や短歌や詩として表現され、数多くの文学作品を生んできたのも事実です。
そうした中で、俳句は、連歌や俳諧と言われた時代から俳句と言われる現代まで、自然を詠い続けてきました。なので、季節のものを取り上げ、季語を使うのは当然である、という説明です。
確かに、「季語=約束説」よりは、説得力がありそうですが、「俳句は季感詩」であると考えることから導かれた説明です。

しかし、ここでさらに考えを進めて見ると、俳句というのは、果たして自然だけを詠んでいればいいものなのか、という疑問にぶつかります。
我々は、自然の中に暮らしていながらも、時代や社会をも生きています。
詩の対象は自然だけではないのです。恋愛や仕事や、病気、死など、人間が抱えている問題はたくさんあります。
物事は季節感情だけではとらえられないのです。
俳句は自然だけを詠んでいればいいという考え方では、自らその領域を狭めているようなものです。
感情や感性を表現しようとしたとき、そこに理不尽な思考の制限を加えられるようでは、自由でのびのびとした表現は望めないでしょう。
「無季俳句」というのは、そうした考え方から作られているのです。

芭蕉は、季語についてどう考えていたかというと、「旅行や恋愛などの俳句には、季語なんかいらない」、というようなことを言ったのは有名な話で、自身、無季俳句も作っています。
おそらく、俳句に季語などどうでもいいと思っていたのでしょう。季語よりも大事なものがあったのです。

こうしてみると、俳句と季語の関係などはあまり重要ではない、という結論に落ち着きそうです。
 
しかし、それでも、いまだに季語にこだわる人たちはたくさんいます。結社と呼ばれる多くの俳句の団体が、有季定型を提唱しています。
それでは、現代俳句で季語を使うメリットは何か、次回はその辺を考えてみます。(続く)



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