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俳句について(6)季語を考える-6

ななかまど

上州の風に散りたる七竈

赤城山のナナカマドの葉は、既に散っていましたが、裸になった真っ赤な実も、またいいものです。
独特の冬芽がきれいです。 

◆  ◆  ◆

季語を考える-6
(2011年10月24日)

●季語のデメリット

季語は便利だからと言って、安易に使ってしまうと、どこかで見たことがあるような、つまらない句になってしまうことがあります。
それは、誰もが同じような思いを持ってその季語を使おうとするためで、似たような句ができてしまうのは当然なのです。
特に「梅」とか「桜」といった季語は、日本人好みで、昔から多くの人に使われ、もう手垢が付いている季語です。自分ではよくできたと思っても、よほど発想や表現に独自性がないと、大概、誰かがすでに詠んでしまった句の焼き直しのような句になっていることが多いのです。
例えば、自分の恋愛体験を桜の儚さに託して、抒情的な句を作ったとします。しかし、それがどんなによくできた俳句でも、桜の儚さと言うイメージは、もう平安時代の昔から数え切れないほど、さまざまな人たちによって詠まれてきたのです。
作る意味さえ無いのです。そうした俳句に、もし意味を見出すとすれば、自己満足ということしかないでしょう。「桜」を季語に選んだ時点で、すでに落とし穴にはまっていたのです。

どうしてそんなことになってしまうのかといえば、別に、季語の「桜」が悪いとか、「桜」の季語を使ってはいけないということではなく、使い方が悪いということなのです。
「桜」というイメージを、頭の中で考えてしまっている、つまり、過去に習ったこと、見たこと、知ったことなどを総合しながら、頭の中で考えて作っているから、類想・類句ができてしまうのです。

・季語のデメリット1:季語はすでに多くの人に使われていて、中には手垢のついた季語もあるので、類想・類句に陥りやすい。

次に、これはメリットとの背中合わせなのですが、季語がそれ自体で独立したイメージを作り出す力があるため、それに頼りすぎ、安易に使ってしまうということです。
例えば、季節とは何も関係ない自分の心境などを詠んで、最後に取り合わせとして季語を入れる、といった俳句は、よく目にします。
ある程度力のある人の句は、ほとんどそうした取り合わせでできているといっても過言ではないほど、溢れています。
ところが、その取り合わせの季語が、なぜこの季語なのか、と言ったものが多いのです。なんでもいいようなもので、いわゆる飾り物。季語を入れなければいけないので入れた、と言うようなものや、中には古くさく陳腐な季語を使用しているものもあるのです。
なぜそうなるかと言えば、季題が先にあって、その季題にあった俳句を机上で作ってしまうとか、言葉のきれいさ、文字数、流行りなど、その俳句とは関係ないことで季語を選んでしまうからで、これも季語の大きな落とし穴と言えます。
こうした落とし穴に落ちてしまうのも、俳句を頭の中で考えて作っているからであって、実感が伴っていないからなのです。

・季語のデメリット2:季語は便利で使いやすいため、安易に使ってしまい、結果として陳腐な句になりやすい。

こうした落とし穴に落ちないために、どうすればいいか。
その辺を明日は考えてみます。(続く)



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