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俳句について(8)仮名遣いを考える-2

匙一杯の光

秋惜しむ匙一杯の光もて

木の葉そのものが光を内包しているようです。 

◆  ◆  ◆

仮名遣いを考える-2
(2011年10月27日)

●仮名遣いと発音

文字は、物を認識し、相手にその物の情報を正しく伝達するために発明されたもので、漢字や象形文字など、ほとんどの文字が表意文字でした。
しかし、「考え」とか「思い」とか、「話ことば」のように形のないものを表現するためには、表意文字は適していません。そこで発明されたのが表音文字でした。
つまり、表音文字は、言葉を正確に伝えるための文字で、現代仮名遣いで言えば50音がそれに当たります。簡単に言ってしまえば、現代の日本語は、濁音、半濁音などを除けば、たった46文字ということになります。
しかもそれはほぼ、発音とも一致しています。というか、発音を50音に合わせたというのが正解でしょう。
一方、昔の日本語は、いろは48文字だとされています。が、しかし、方言を調べていると、昔の言葉は、とても「いろは48文字」では表せません。おそらく母音が5文字ではないのです。
例えば、「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」では発音が違うのでしょう。「づ」と「ず」、「ぢ」と「じ」も発音が違うのかもしれません。
方言で言えば、現代語の「し」は「suwi」、「ち」は「tuwi」というように発音されます。この「suwi」や「tuwi」にあたる文字は今のところ無いのです。

なぜ、こんな話をしたかというと、俳句は、文字にして目で見るものではなく、音にして詠うものなのです。そのため、文字よりも音が重要なのだと思います。つまり、旧仮名遣いであれ、現代仮名遣いであれ、正確に発音できない文字なのだから、どうでもいい、ということになります。
昨日の俳句で言えば、「行く秋の木々自づから輝きぬ」でも「行く秋の木々自ずから輝きぬ」でもどっちでも同じだということです。
「いや、それは違う。月とすっぽんぐらい違うのだ」という人もいますが、その根拠ははっきりしません。
オリジナリティやニュアンスが大切なのであれば、作者の直筆を見るしかありません。
仮名遣いではありませんが、例えば、芭蕉の俳句をいろいろな本でみると、同じ俳句なのに、漢字だったり平仮名だったり、字送りが違っていたり、と、どれが芭蕉の書いたオリジナルなのかさっぱり分からないものが多いのです。
それでも、漢字であろうが平仮名であろうが、芭蕉の俳句であることには違いなく、価値が下がるものでもないと思います。
極端かもしれませんが、芭蕉の「蛙飛び込む水の音」は、現代仮名遣いの「かわずとびこむみずのおと」と表記しても、旧仮名遣いの「かわづとびこむみづのをと」と表記しても、現代では発音は全く同じで、違いはわかりません。どちらでもいいということです。

俳句を文語体で詠むか、口語体で詠むかは、俳句の良し悪しを決定する重要な要素ですが、旧仮名遣いにするか、現代仮名遣いにするかということは、それほど重要ではないと思います。
ただ、昔の俳句を表記する場合は、旧仮名遣いにした方がいいようには思いますが……。
サイトなどに投稿された俳句の仮名遣いの間違いを指摘して、鋭く非難する人もいますが、それはその人の趣味やこだわりの問題であって、俳句の本質にかかわる問題ではないと思います。

ちょっと感情的になってきたので、仮名遣いについてはこの辺で。
次は「詩心・詩語」のようなことについて考えてみます。(続く)



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