代官山・退屈な町

ショーウインドウ

ウインドウののっぺらぼうも冬隣

朝倉邸を出ればすぐ、名にし負う若者の街代官山の大通り。山手通りを左に行けば、すぐに代官山ヒルサイドテラスがある。このヒルサイドテラスは、朝倉邸の敷地の一部だったそうだ。通りから朝倉邸の屋根が見える。
代官山は、最近、何かと話題の多い街だが、休日にもかかわらず、この辺は人が少ない。ショップの中を一通り歩いてみたが、若者向けの雑貨などが多い。通りの反対側に渡り、駅に向かってぷらぷら歩くと、ちらほらと小さなお店があり、ときどき若い二人連れに出会う。私のような年寄りは全く見えない。
途中から、若者について裏道に入ると、そこにも小さなお店がいろいろある。ファッションの店が多いようだ。最近の若者の街だけに、原宿などとはまた違った、どことなく落ち着いたおしゃれ感がある。裏道の店先に、さりげなくポルシェが停まっていたりする。が、人は相変わらず少なく、これで商売ができているのか、他人ごとながら心配になる。

変わった雑貨屋 裏道の店先の高級車
▲代官山のショップ。変わった雑貨屋があったり、高級車が停まっていたりする。

それでも、駅の傍の喫茶店やレストランは混んでいて、お茶を飲むのも、しばらく並ばないといけない。駅前をちょっと離れ、恵比寿の方に歩くと、もう静かな住宅街。さすがに高級住宅街の感じが漂っている。
お店はどうでもいいものが多く、街並みも取り立ててきれいなわけではないし、若者がどこに魅力を感じているのかわからない。私にとっては非常に退屈な街だ。

名にし負う代官山は冬隣

感想は、代官山ってこんなところか、といった感じ。もっと賑やかな街かと想像していたのだが、意外と落ち着いた感じだ。坂が多いことも、そうした感じを与えるのかもしれない。
失望感を「名にし負う」で表し、「冬隣」に、この街のどこかわびしい感じをこめてみた。街を歩いていると、どことなく晩秋の冷たい風が吹き抜けていくような感じがする。そんな街のイメージ。ただ、これでは街の様子も伝わってこないし、だからどうなのか、何を言いたいのかわからない。

退屈な代官山は冬隣

「退屈な」は、「名にし負う」に比べれば何かを語っているが、それでも響いてこない。「代官山」は必要だろうか。

退屈な街見回せば冬隣

ちょっと当り前か。「見回せば」は、状況説明的で、詩になっていない。見回すという動作そのものに詩を感じないのだろう。

退屈な街を急げば冬隣

「街を急ぐ」はいいかもしれない。特に「退屈な街を急ぐ」となれば、何かを感じる。が、何か歌の歌詞にでもありそうで、陳腐かもしれない。

若者の街はさびしき冬隣

どうも面白くない。新しさもなければ、おもしろさもおかしさもない。何のために俳句を作っているのか、まったく伝わってこない俳句だ。またもや煮詰まってしまった。

ウインドウののっぺらぼうや冬隣

いい言葉が浮かばないまま、写真を見ていて、すらすらと出てきた句。写真そのままだが、どこかおもしろい。「ウインドウののっぺらぼう」と言えば、誰でもマネキンを思うだろう。そして「冬隣」となれば、マネキンはコートなどを着ている、ということが想像できる。それが、どこかさびしい街を連想させないか?こんな単純なことでいいのではないか?
ただ、「や」がどこか浮いているような気がする。トーンは新しいのに、「や」が一気に古臭い感じを与えてしまうのかもしれない。

ウインドウののっぺらぼうも冬隣

余韻は薄れたかもしれないが、雰囲気はある。「も」とすることで広がりが出たかもしれない。ウインドウの中だけではなく、この若者の街にも冬が近づいているという実感が出ているような気がする。「や」だと、街に先駆けて、ウインドウの中に、早くも冬が来ている、ととらえられる可能性もある。それとはちょっと違うのだ。







代官山・旧朝倉邸-4/襖絵



襖絵の黒き桜の潔さ

朝倉邸二階大広間の襖絵。うろ覚えだが、三間×二間半ほどの和室(15畳ほどか)が二つあり、真ん中の襖を外せば、大広間になるという部屋の襖に(おそらく一部屋に10枚程度の襖がある)、桜と柳が描いてある。一部屋目は、柳と白い桜が中心になっていて、ふた部屋目は、黒い桜と白い八重の桜が中心となっている(これもうろ覚え、今度行った時に確認)。
柳も桜もちょっと変わっている。柳は、大きな木なのだが、枝垂れ柳とは違う枝ぶりになっていて、花が咲いている。桜は、白と黒の花で、それぞれ五弁と八重がある。ほとんど満開状態で、つぼみはわずか、葉が少し見えている。なぜか幹や枝は描かれていない。
特に目につくのは、黒い桜の花。絵の状態はかなり悪いので、変色したものか、もともと黒かったのか、定かではない。絵の具に鉄分のようなものが入っていて、酸化してしまったということも考えられる。というのも、昔、肥後象眼の職人を取材したときに、下地の鉄をわざわざ時間をかけて酸化させ、真黒にしていたのを、思い出したからだ。もともと黒かったとすれば、かなり大胆だ。しかし、構図は意外におとなしい。桜の花弁はパターン化され、ほとんど襖の下の方に、判で押したように描かれている。画家というよりも、職人の仕事を思わせる。

黒い桜全体 桜と柳
▲「黒い桜の花びら」の襖絵と「柳に桜」の襖絵

これに俳句を付けることができるのだろうか。かなり悩んだ。この情景のポイントは、黒い桜の花にあるのだが、これをどう詠えばいいのか、皆目見当がつかない。

襖絵の黒き桜や秋の暮

全く見たままなのだが、「襖絵」と「黒い桜」は、絶対に外せない言葉だと思った。そうしないとなんだかわからなくなる。
季語は「秋の暮」なのだが、こうした場合、「桜」は季語にならないのだろうか。実際上の季節は「秋」だとしても、内容的には秋である必要はない。絵の中の「桜」が季語として認められるのであれば、「秋の暮」という言葉は必要ないかもしれない。季語に字数をさく余裕はないのだ。いずれにしても、何も響かない句だ。

襖絵は黒き桜の朝倉邸

季語は「桜」として、襖絵の「黒き桜」に「朝倉邸」という箔をつけてみた。そうすることで「黒き桜」に意味を持たせたかったのだが、「朝倉邸」が何か、ほとんどの人は知らない。重要文化財であることの前書きのようなものが必要かもしれない。
ちょっと煮詰まってしまったので、方向を変えることにした。

襖絵の破れてあるも秋の暮

襖絵やつるべ落としのつれなくて


など、黒い桜から離れて、心象を軽くスケッチしてみたのだが、全くつまらない。ここでのポイントは、どうしてもこの黒い桜でなければならないのだ。
「襖絵」という言葉を取って、単に「黒き桜」だけを残すことは可能だろうか。おそらくシュールになるだけで、何が何だかわからなくなる可能性がある。
そもそも、この黒い桜のどこに感動したのか、何が琴線に触れるのか。常識的ではないところか。意表をついたところか。大胆なところか。おそらく、そのすべてだろう。作者の思い切りの良さに共感したのかもしれない。
そう思ったときに、ふっと思いついた。

襖絵の黒き桜や潔し

悪くはないような気がする。「襖絵の」がどうも説明的で気になるのだが、しょうがないとして、それでも、なにかが気になる。あまりにも俳句らしくなってしまって、古臭く感じるのか。切れが良すぎるというか、強すぎて、この情景に似合わないのかもしれない。

襖絵の黒き桜の潔さ

こちらの方が軽くて、自分の気持に近いかもしれない。

他にも、床の間の袋戸棚にはいろいろな絵が描かれている。

襖絵・扇 襖絵・松
▲床の間の袋戸棚の襖絵

この他、猫じゃらしなど秋の雑草を、茶室の天袋の板戸に描いたもの(これがシンプルでなかなかいい)、河童の浮彫のある部屋の床の間にある、白椿の絵など、なかなかいいのだが、残念ながら、手ぶれしていたり、暗すぎたりで、ここに紹介できないのが残念だ。またの機会に撮影して、紹介したい。




代官山・旧朝倉邸-3/欄間絵

欄間絵

欄間絵の薄暗うして秋深し

朝倉邸は、重要文化財というだけあって、襖絵や欄間絵なども多い。これは、先の河童の浮彫があった床の間横の付書院の欄間絵。もともと奥まった部屋で薄暗い所なのだが、明かり障子の上の欄間なので逆光になるため、絵が書いてあることはうっすらわかるのだが、どんな絵なのか、肉眼ではほとんど判別できない。
最近のデジカメは、こんな時に威力を発揮する。ISO感度1600、シャッタースピード1/20で見事に写った。手ぶれ補正のおかげで、それほどぶれてもいない。カシワの木に鶯のような鳥が止まっている絵であることがわかる。
板に直に描かれているようで、木目がきれいだ。鳥もカシワの葉も、写実的で丁寧に描いてある。ちょっと見、鶯のように見えた鳥も、よく見ると、目やその周りの黒い模様などが鋭く描かれていて、鶯ではないかもしれない。
素晴らしいというほどでもないが、悪くはない。もっと明るい所でじっくりと見てみたい絵だ。

欄間絵全体
▲鳥とカシワの木の欄間絵全体

この週末にずっと考えていたのだが、こうした絵や彫刻などを俳句にするというのは難しい。元々、人を感動させるために創ったものなのだから、その感動を、また言葉で語る必要はないのかもしれない。ただ感動していればいいのだ。

釣瓶落としと薄暗がりの文化財

このどうしようもない俳句の、そのどうしようもなさは、どこからくるのか。
一つには、遠くから重要文化財を見に来て、特に興味のある「絵」を観たいのに、薄暗くて見えない。その気持ちを表そうとしたため、説明的になっているにもかかわらず、舌足らずで、何を言っているのかよくわからないものになってしまったこと。
もう一つは、「釣瓶落とし」の季語が全く働いていないこと。
要するに、表現が稚拙だということなのだが、それだけではなさそうだ。
「薄暗がりの文化財」とは何か。説明にもなっていないし、何かの象徴にもなっていない。詩的でもない。表現以前の問題だ。また、「釣瓶落とし」は、この場合の季語として適切とは思えない。秋の日は釣瓶落としですぐ暗くなってしまう、といった説明になってしまっているのではないか。そもそも、こうした句に季語は必要なのだろうか。
私が俳句を作るときは、季語あるいは季節を感じさせる言葉を必ず入れることにしている。特に意味はない、約束事だ。ところが、こういう場面では迷ってしまう。何の意味もない季語を入れても、字数の無駄になる。

欄間絵の薄暗がりや秋深し

薄暗い部屋の欄間に絵が描いてある。その薄暗い空間がなぜか気になる。懐かしいような、さびしいような…、それでいて、何かそこにとてつもないものが潜んでいるような、言葉では表せない感覚。秋も深まった。
といった意味だ。前よりはいい。「薄暗がりや」の詠嘆の「や」が余韻を出しているように思える。「秋深し」も、手垢が付いている割には、それほど悪くはない。
ただ、全体としてみた時に、面白みとか、響くものがない。問題は中七だ。「薄暗がりや」は、いま一つひっかかりがなく弱い。

欄間絵の薄暗うして秋深し

「薄暗うして」は、古い言い回しだが、「薄暗がりや」よりは新しく響く。切れは悪くなったが、逆に「秋深し」とのつながりが出てきたように思う。季語とつなげる必要はないのだが、リズムのごつごつ感がなくなったのではないか。

今回は全くできが悪かった。これも欄間絵などを詠もうとしたからだと反省している。そういえば、これまで絵や彫刻を俳句に詠んだ人はいるのだろうか。そうした俳句をあまり見たことがないように思う。
といいながら、もう一つ、ちょっと気になる襖絵があって、それでも悩んでいるのだ。





代官山・旧朝倉邸-2/河童

河童の浮彫アップ

ふと秋思知る人もなき河童かな

これは何だろうか。座敷か寝室か定かではないが、その床の間の板戸に彫られたいるものだ。私は河童と見たのだが、どうだろうか。
元々は金泥で塗られていたようだ。目や眉、口などの周り、板戸の桟などに金泥が残っている。右の戸の右下に○○作とサインがあるのだが、達筆すぎて読めない。おそらく名のある作家によるものだろう。
河童だと断定できないのは、頭のお皿や目の感じが、いわゆる河童とは少し異なっている。頭だけで体が全く見えないのも不自然だ。また、横に伸びた棒のようなものは何だろうか。河童が棒でつつかれて流されているようにも見える。

河童の浮彫
▲河童の浮彫全体。右下にサインが見える。

部屋の隅の暗い所にあるので、肉眼ではよく見えない。ストロボも禁止なので、カメラのISO感度を目いっぱいに上げて撮影したところ、やっと細部までわかり、河童だろうと判定した。
まず目につくのは目。金泥で縁どられているように見えるため、異様だ。ふと、天才バカボンに出てくるおまわりさんの目を連想した。しかし、全体としてみれば、作者は誰であれ、この鑿痕の美しさから見ても、いいものであることは間違いない。

もし、この部屋が寝室だとすると、ちょっと不気味で、夜中に目が覚めたりすると声を出してしまいそうだが、昔の人は、襖に竜や虎などを描いたりするので、あまり気にしないのかもしれない。

秋深し河童と暮らす昔人

河童といえば、昔から伝承として語り伝えられ、絵にも描かれてきた。神社などもあったりして、どちらかといえば多くの人々に親しまれてきた妖怪だ。河童はキツネやタヌキと同じようなものなのだ。河童と暮らしていてもおかしくない。
「秋深し」がとってつけたようで唐突。また、「昔人」というのはどうか。状況にひきずられ過ぎている感じがする。写真がなければわからないし、かといって、写真を見てしまうと、その写真の説明になってしまっている感じ、とでもいえばいいだろうか。

秋思ふと水中眼鏡の河童かな

この写真を見ていて、ふと、河童が金縁の水中眼鏡をしているのではないかと思った。実は河童は宇宙人で、宇宙服を着ているのかもしれない。水中眼鏡の河童というのは、意表をついて何となくおかしいが、どこまで、そのナンセンスなおかしさが伝わるか。写真がなければ通用しないおかしさでもある。そういえば奇抜な眼鏡をかけた有名な落語家の顔に見えてきた。

ふと秋思無名の河童眺めつつ

江戸時代の浮世絵や芥川龍之介の小説、最近では清水昆の漫画など、世の中には有名な河童も多い。だが、この河童はどうか。おそらく見たことがある人は、非常に少ないのではないかと思われる。そうした意味では無名だ。無名でありながらどこか存在感がある。「おまえもなかなかいい奴なのに、無名とはかわいそうに」といった感慨。なのだが、「眺めつつ」はどこか変だ。焦点が「河童」ではなく「秋思」に当たっている。しかも、この場合、思っているのは河童のことではないことになってしまう。ぼやけてしまったということだ。

ふと秋思知る人もなき河童かな

これでどうだろう。「ふと秋思」が唐突かもしれない。「ふと」を使いたいので、なかなか捨てきれない。中七も陳腐かもしれない。




代官山・旧朝倉邸-1/庭

奥座敷から庭を望む

奥座敷色なき風にねまるなり

代官山ヒルサイドテラスのすぐ裏に、国の重要文化財の旧朝倉邸がある。つい最近、一般公開されたばかりらしい。いまや若者の街となった代官山の、それもショッピングの中心地に、このような静かな場所が残っているとは驚きだ。代官山の高台の斜面にあるため、部屋から見る景色は開けていて、都心のショッピング街とは思えない。住宅やビルなどは何も見えず、森の中にいるような解放感がある。
その朝倉邸の一番奥まったところにある10畳ほどの座敷から観る庭は、特に素晴らしい。庭が急斜面に作ってあるため、座敷が空間に浮かんでいるような錯覚に陥る。
庭の反対側(この写真を撮っている側)には、もう一つ同じような広さの部屋があり、廊下をはさんで中庭に面している。秋の爽やかな風が、部屋を通り抜ける。日本の住宅の素晴らしさだ。部屋の中に立っているのが無礼のような気がして、ついつい正座してしまう。

庭から奥座敷を望む
▲庭から見た奥座敷。一番左に見えるのがこの部屋

こういう場所で、静かに俳句でも捻ることができれば、俳句をやっている気分になれるのだが、その場にいると何も思いつかない。俳句というやつは、現場でぽんと出てくるものではないのだ。というわけで、

秋気澄む代官山の奥座敷

例によって、最初に出てくる句は、なんのことだかわからない。代官山も言いたいし、奥座敷の静かなたたずまいもいいたい。欲張りなのだ。

開け放ちねまる座敷や秋気澄む

代官山はあきらめて、日本建築の背筋がぴんとなるような、気品のあるたたずまいに、焦点を絞り込む。「秋気澄む」は、季語として品を感じるので、そのまま生かすことにして、「ねまる」という動作を表わしてみた。
「ねまる」は、聞きなれない言葉だが、「黙って正座する」という意味で、おそらく古語なのだろうが、私の故郷、庄内では日常使っている。「座敷に入ったら、突っ立っていないで、まずねまれ」とよく言われたものだ。
「ねまる座敷」は、言葉としていやではないが、「開け放ち」が気になる。特にこの場合、障子を開け放ったのは自分ではなく、すでに開け放ってあったのだ。どうでもいいことだが、嘘を言っているような気がするのか。
それよりも、「秋気澄む」という季語に合わせようとしているところが、問題だ。「秋気澄む」と言えば、すでに座敷の障子は開け放たれているということはわかる。要するに、言葉がダブっていることになる。

秋澄みて思わずねまる奥座敷

親のしつけが効いているのか、座敷の中にぼ〜っと突っ立っていることができない。思わず正座してしまう。「ねまる」とはそういうことだ。
季語を後に持ってくると、どうものんびりしてしまう感じがあり、緊張感が薄れるので、前に持ってきた。「思わずねまる」は、あまりにも直接的か。こういう感覚は、自分だけのものかも知れない。観念的すぎてわからないか。

奥座敷色なき風にねまるなり

季語を「色無き風」に変えてみた。座敷の中を風が通り抜ける感じが欲しいと思ったのだ。「色無き風」という、どこか雅で詩的なイメージが、この部屋に最初に立った時のイメージに近いのではないか。「色無き風にねまる」には、日本的情緒があるように感じる。

読み返してみると、古い。言葉がすべて死語で、古語辞典でも引かないとわからないような言葉だ。情緒も古臭く、江戸時代の俳句のようだ。ちょっと、最初から考えなおす必要がありそうだ。

庭を掃除していた方に聞いてみると、紅葉は12月5日頃が見頃ということなので、また、その頃に改めて写真を撮りに来て、俳句にも再挑戦してみたい。

庭の木々
▲紅葉が楽しみな庭の木々



蓮の実飛ぶ



蓮の実の飛ぶ日はいつか日は陰る

ちょうど去年の今日、私は蓮の実が飛ぶのを、カメラを構えて待っていた。蓮の実はこぼれるのではなく、飛ぶものらしい。どんなふうに飛ぶのか見てみたい。それが目的ではなかったが、去年の今頃は鬱状態が続き、無目的に電車に飛び乗って、千葉の里山や海を歩き回っていた。偶然、蓮の実が飛び出しそうな風景に出会って、「蓮の実飛ぶ」という言葉を思い出したのだ。当時は俳句をやろうなどとは思ってもいなかったので、「蓮の実飛ぶ」という言葉が、季語であることは知らなかった。ただ、言葉として聞いたことがあるというだけである。
蓮の葉は、みな途中で折れてしまい、池に倒れ伏している。蓮の実だけが、あちこちににょっきりと立ち、そこに秋の日がスポットライトのように差していて、いかにも種を飛ばしそうな雰囲気だった。私は、息子に借りてきた800ミリ相当の望遠レンズを構え、しばらく待った。肉眼ではわからないのだが、800ミリのレンズで見ると、蓮の実は、風でかなり揺れている。蓮の実もはっきりと確認できる。
眼の端で何かが飛んだ。カメラを向けていなかった蓮の実だ。飛んだのか?しばらく眺めているまた、何かが飛んだ。小さな青ガエルだ。カメラを向けて、超望遠でよく見ると、蓮の実の裏側などにへばりついているのがわかる。
そのうちに日が陰ってきて、実は飛びそうもなく、鬱がますますひどくなった。

そんなことを思い出して、俳句を作る気になった。

蓮の実は飛ばず鬱のみつのりたり

「鬱のみつのりたり」は、表現としてどうだろうか。蓮の実と鬱が因果関係にあるような感じ。それが悪いわけではないのだろうが、どこか薄っぺらな感じがする。現在のものとしてとらえているので、「鬱」という言葉が生々しく響く。

蓮の実飛ぶ去年の今日は鬱なりき

そういえば、去年の今日は鬱がひどかったなあ、という感慨。だから何なのか、と言ってしまえばそれまでだ。「鬱」という言葉は出さない方がいいようだ。

蓮の実や去年の今日は飛ばずして

これはつまらない。蓮の実が飛ぶ、ということだけで、詩の世界が作れるか。「去年の今日は飛ばずして」の「して」のあとには、どんな言葉を続けようというのか。ちょっと逃げている。「去年の今日」という言葉は、ちょっとありふれて陳腐だ。

蓮の実の飛ぶ日はいつか日は陰る

「蓮の実の飛ぶ日」と、季語をちょっと象徴的に扱って見た。夢か、希望か、期待か、未来に向かう何かが始まるのは確かなのだが、それがいつかはわからない。そう遠い日ではない、近いいつかだ。
下五は「日は差しぬ」でもいいのだが、それだとあまりにも都合がよすぎる。ちょっと屈折して「日は陰る」としてみた。

何度読み返してみても、あまりピンとこない。響かない。たぶんどうしようもない句なのだろう。「飛ぶ日はいつか」と「日は陰る」の間に、通じるものというか、共感がない。蓮の実を最後まで引きずっているのがよくないのだろう。




Action Scriptにはまった頃



秋灯やざわめく草の向こう側

今日は、することもなし、これまでの仕事の整理をしていた。サーバに保管してある個人データの中に、「Flash習作」というフォルダを見つけ、何かに取りつかれたように、FlashのAction Scriptに夢中だった頃を思い出した。
忙しいのに、何かをやりたくなることというのはよくある。これまで、いろいろなことに手を出してきて、ホームページをいくつも立ち上げてきたが、それは、暇だったからではなかった。忙しい中で何かに夢中になる、というのは、一つの快感でさえある。興奮してなかなか眠れない高揚感というものが、たまらなく好きだったのかもしれない。
このAction Scriptも例外ではない。60の手習いで、入門書と首っ引きで始めたのだが、入門書の通りに作っても面白くない。基本を一通り理解したところで、自分に課題を与え、それを作ってみることにした。
例えば、最初のころは、蛍や蝶の飛ぶような動きを作れないかとか、マウスで捕まえようとしても捕まえられないボタンなどはどうだろうとか、もっと後には、スクリプトで勝手に作る文字などにも挑戦した。一つのボールが弾んで自然に止まる。たったそれだけのことに、二晩も徹夜したことがある。しかし、ある日突然いやになってやめた。理由はなかった。ただやめたという事実があるだけだった。
そうした、半ば忘れていた習作が、ここにあり、いまつらつらと見ていた。動かないもの、途中までのものなども入れれば、数百もあるだろうか。よく作ったものだと感心する。しかし、そのスクリプトを見ても、今はちんぷんかんぷんでよくわからない。今だったら、こんな風にするのに、と思っても、もう直すことはできないのだ。あれだけのめり込んだのに、わずか三年程度ですべて忘れてしまうとは、何とも情けないことだ。

中で、いま、なんとなくいいなと思って見ていたのが、この作品だ。気負いもなく、ごく自然に作っている。俳句の世界だと一瞬思った。まさかFlashの作品に俳句を付けようなどとは思いもしなかったが、これだったら付けられそうな気がする。
Flashを作った時はたしか梅雨時で、風に揺れる草と、その草にとまる蛍をイメージしたと思う。しかし、今見ると、秋風に揺らぐ芒を思う。その向こうには、村の明かりがちらちらと見える。ざわざわと芒が揺れる音がして、一人で帰る夜道におびえているような、どこかさびしい風景だ。
草の向こう側に早く帰りたいという思い、それは、いつかどこかであったような、子供の頃の思い出でもあるような気がする。

このFlashのことは、当時、公開して途中で投げ出したブログ「あと何日かな〜」に、、「Flash Action Script習作集」として一部アップしてあり、「Action Scriptに挑戦」として、解説を掲載しているのだが、解説はいまさらできないので、少なくとも、ちょっと面白いFlashだけでも選んで、追加していこうかと思う。

URL:http://www.myshonai.com/flash/index.html
「Flash Action Script習作集」




他人のこと



秋風や告知の日から他人のこと

10月18日、土曜日。本来ならば放射線治療は休みなのだが、病院の都合で治療を行うことになり、久々、カメラを持って、休日の都心を歩いてみた。
治療が終わって、病院から日比谷公園を抜け、皇居まで来ると、皇居のお濠の水面に白い風船が浮いている。周りでデモをやっているわけでもなく、風船を持った人が歩いているわけでもない。特に変わった景色でもなく、ただ、どこかから風に乗って流されてきた風船が、水に浮いているというだけのこと。なんとなくその風船を見ていると、ピンクのリボンが書いてある。普段であればそんなものには興味もわかないのだが、そのリボンに見覚えがあって、それなのに、それが何か思い出さなかったので、写真を撮っておいた。
皇居東御苑を散策した後、濠端を歩いていて、ピンクリボンの書いてある白い風船を持った家族連れと出会った。そしてはっと気がついた。ピンクリボンは、乳がんから女性を守るピンクリボン運動のシンボルマークなのだ。

がんの告知を受けてから、自分では意識していないのだが、がんという言葉や文字に敏感になっているようで、新聞を見ていても、電車に乗っていても、また本屋に行っても、以前よりもずっと「がん」という文字が目につくようになった。「がん」という言葉が、これほど世の中に溢れているとは思わなかったし、気にしたこともなかったのだ。
また、他人のことが気になり、電車の中などで同年輩の男性が近くにいると、ついその人の首のまわりに視線が行ったりする。同病の人を見つけて相哀れみたいという気持ちなのかも知れない。
それまでまったく気にも留めていなかったことや、見ていなかった(見えていなかった)ことが、最近、見えているようだ。お濠に浮いた白い風船が気になったのも、ピンクリボンががんと関係があると、意識のどこかで感じていたからかもしれない。

ということで、今日の俳句。

風船のピンクリボンや秋の風

「風船のピンクリボン」とは何だろう。ピンクリボンがピンクリボン運動のことだとわかっている人でも、これでは何のことかわからない。「ピンクリボン運動という乳がん予防運動のマークがついた風船」ということを説明しようとしているからわからなくなる。

秋風やピンクリボンが街を飛ぶ

「赤い羽根」といえば共同募金の運動であることは誰でも知っているように、「ピンクリボン」といえば乳がん予防運動であることを知っている、という前提で作った。
「ピンクリボンが街を飛ぶ」を、単純に解釈すれば、ピンクのリボンが秋風に乗って、街の中を飛んで行ったということになるが、ピンクリボン運動という言葉を知っていれば、「ピンクリボン」は単なるピンクのリボンを表しているものではなく、思想を表わす象徴であることに気付くはずだ。そういうことであれば、この句は理解できないこともない。ただ、だからといっていい句かどうかは別問題。この句には、詩情がないというか、言葉が詩になっていないため、余韻、余情といったものが感じられない。
そもそも「ピンクリボン」という言葉が一般的ではなく、言葉の概念がないのに、6文字も使用してしまうことに問題がありそうだ。「ピンクリボン」とは何かを説明することなどできない。
言葉には、単なるものを表したり説明する言葉、思想を表わす言葉、そして詩心を表わす言葉がある。例えばこの「ピンクリボン」という言葉。ある人にはものを説明している言葉でもあり、ある人には思想を表わしている言葉でもあるが、詩心を表わしていると感じる人がいるかどうかは疑わしい。
言葉に詩があるかどうかは、言葉の問題ではなく、言葉を紡ぎだす側の問題だ。「ピンクリボン」という言葉を詩にするには、その前後にいくつかの言葉を補足する必要がありそうだ。そのための字数が俳句にはないのだ。

秋風や告知の日から他人(ひと)のこと

ピンクリボン=がんという連想から、自分のがんについて触れてみたいと思った。
「告知の日」と言えば、おそらくほとんどの人はがんの告知だと思う。受胎告知などと思う人は少ないだろう。
「他人のこと」は、他人のことが気になるようになった、ということ。
あえてこの句を自解すれば、秋風の吹いているどこかものさびしい昼下がり、皇居の周りを散策していると、ピンクリボン運動の白い風船がひとつ、お濠に浮いているのが目に入った(ここまでは写真を見ればわかる。状況はすべて写真に託している)。このがん予防運動のマークを見て思ったのだが、私もがんを告知されてから、それまではまったく無関心だった他人のことが気になるようになったなあ、といったところか。

うまい解説が付くと、それほどでもないものでも、よくなったりする。特に芸術というものはそういうものだ。とは思わないが……。




皇居・諏訪の茶屋

皇居・諏訪の茶屋

秋冷の屋根より来る諏訪の茶屋

皇居東御苑にある諏訪の茶屋という茶室。二の丸跡の庭園の片隅にあって、静かな佇まいを見せている。庭園を訪れるたびに、この書院造風の建物が気になってしかたがないのだが、近づいたことはない。おそらく中には入れないのだろう。
この建物の素晴らしさは、屋根にある。茶室とは思えない重層のどっしりとした屋根。大きく張り出した庇。やわらかくゆったりとカーブした破風。秋の傾きかけた日に光る銅葺。誰が、いつ頃作ったものか、また、名前の由来など、私にはまったくわからないのだが、日本人の感性から生まれたすぐれた造形がそこにある。
夏の強い日差しの中で見せる屋根のコントラストも素晴らしいが、秋、やわらかな斜光の中で見せる、やさしい表情も捨てがたい。

この建物を俳句に詠みたいと、しばらく立ち止まって眺めてみるものの、その気品に圧倒されて言葉にならない。秋の冷気がその大屋根から降りてきて、周りをさわやかに包み込む。

諏訪の茶屋の屋根_1 諏訪の茶屋の屋根_2

「秋冷や」。まず置いてみる。この建物を前に、きりりと身の引き締まる感じは、「秋冷や」以外にないような気がしてきた。さて、次が出てこない。
諏訪の茶屋の佇まいをどう表現するか。固有名詞を出すか出さないか。悩む。とりあえず写真に収めてその日は保留。

秋冷を屋根にまといて諏訪の茶屋

写真を見ながらぽんと出てきた句。屋根の光っている感じが、秋の冷やかさをまとっているように見えた。
しかし、これはだめだ。「秋冷を屋根にまといて」などという擬人法は全く古い。何のために俳句を作っているのか、これまで一年も俳句をやってきて、こんな句しか浮かばないとは情けない。

秋冷や屋根すべり来て諏訪の茶屋

「秋冷や」の「や」と「茶屋」の「や」が偶然韻を踏んでしまったのが、どこか嫌味になっている。「すべり来て」も理屈っぽい。

秋冷の屋根に漂う諏訪の茶屋

「屋根に漂う」は平凡すぎる。「秋冷」は気に入っているし、「諏訪の茶屋」は、わからない人がほとんどだと思うのだが、語感がいいので残すとして、中七をどうするか。屋根を何とかしたい。屋根にどんな詩があるか。
気品があって身が引き締まる、作った人の感性があふれている、感性に共感する、やさしい気持ちになる、うれしくなる、人間の素晴らしさを感じる……。

秋冷の屋根より来る諏訪の茶屋

先にも言ったが、この建物の素晴らしさは屋根にある。「屋根より来る」は、平凡な言葉だが、単に秋の冷気が屋根から降りてくるということを表現したのではない。建物の気品、やさしさ、感動など、すべてがこの屋根から発しているということ、それを象徴したつもりなのだが、これも理屈か。




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