南伊豆の正月/3-水仙市

金目鯛の干物

水仙の市に掉さす金目干し

港の中の駐車場横で水仙市をやっていて、そこそこに賑わっている。市といっても水仙の切り花や鉢植え、球根などを無造作に並べて売っているだけ。水仙祭という名目上、水仙を販売しないわけにはいかないのだろうが、水仙はあまり人気がないようだ。よく見ると、水仙よりも横に並べてある干物に人が群がっている。浜の人も例年のことなのでよく分かっているのだろう。水仙市と言いながら、水仙1に対して干物3くらいの割合で店を構えている。
私としては、やはり水仙よりも干物に興味がある。イカやアジ、イワシなどちょうどいい干し加減だ。特に金目鯛の開きはよだれが出そうだ。この場で焼いて酒の肴にしたらさぞかしおいしかろう、などと眺めながらも、禁酒の身、横眼で見ながら通り過ぎるしかない。

水仙の球根 アジの干物
▲左:野水仙の球根。右:ちょうどいい干し加減のアジの干物。

せめて気分だけでも味わおうと写真に収める。我ながらいやしいと思いつつ。さて、せっかく撮ってきたのだから俳句でも付けてみよう。

浜風に水仙市の干物かな

これは私の悪い癖でいつも反省しているのだが、最初はどうも状況説明的なつまらない句になってしまう。まず何か、言葉にして置いてみないと、次の言葉が考えられないのだ。
ということで、ここから始まるわけなのだが、まず、この句の問題点を具体的に上げれば、「水仙市」という言葉が、市場ではなく街の名前のように思えること。「干物かな」ではどうもインパクトがないこと。使われている言葉が名詞と助詞しかないため、余韻が残らないことなど。

水仙の市場賑わす金目干し

「市場賑わす」が工夫したところ。「賑わい金目干し」とか「賑わう金目干し」とした方が、含みがあっていいのだが、あえて直接的に「賑わす金目干し」としたのは、「水仙市」といいながらも、餅は餅屋、やはり主役は干物だったというおかしさを強調するため。しかし、ちょっと説明しすぎた感がある。

水仙の市にあわれや金目干し

なぜか「あわれ」という言葉が浮かんできた。何が「あわれ」かというと、水仙市と言いながらも干物でも売らなければ人が集まらないし儲からない「あわれ」さと、体を無造作に開かれ人目にさらされている金目鯛の「あわれ」さ。こう解説するとそうなのかと納得できるのだが、だからといって、心に響いてくることもない。何が問題か。おそらく頭の中でひねっているだけで、実感が伴わないためと思われる。

水仙の市に掉さす金目干し

なぜ「あわれや」が「掉さす」になったかというと、これもまた、ふと「情に掉させば流される」という例の「草枕」の一節を思い出したため。どうも人間は(私は?)、まったく関係ないことを考えるときでも、現在進行している事柄に強く影響されるもののようだ。あたりまえだが。
「掉さす」を辞書で引いてみると、「調子を合わせて、うまく立ち回る。」とある。なかなかおもしろいではないか?このナンセンスさがおもしろいと思うのは私だけか。

ところで、この句の季語は「水仙」なのだが、「金目干し」はどうなのだろう。「金目鯛」は冬の季語なのだから、「金目干し」も冬の季語になりそうなものだが、こればっかりは決めごとなので、季語辞典になければ季語ではないのだろう。





南伊豆の正月/2-観光客

野水仙と観光客

水仙やとかくこの世の好奇心

去年の暮、久しぶりに夏目漱石の「草枕」を読んだ。学生時代に読んだきりなので、内容なんかすっかり忘れている。読み直してみるとなかなか面白い。俳句と漢詩の組み合わせなど、どことなく蕪村の「春風馬堤曲」を思わせる。
医者の勧めがあったとはいえ、この下田温泉旅行も実は、この草枕に刺激されて急遽思い立ったものだ。草枕の主人公のように、しばし浮世のことは忘れて、風雅の世界にどっぷりとつかりたい、という思いだ。
ところがどうだろう。自分もその一人なので、偉そうなことは言えないが、こんな辺鄙な日本の南端に来ても、人は大勢群がって、風雅の世界とは程遠い。観光バスが連なって、観光客がぞろぞろと降りてくる。見ていればすぐ気が付くことだが、そのほとんどは50代から60代の女性、いわゆるおばさんだ。このおばさんパワーは、どこが不景気なのかと思うほど凄い。観光にショッピングにグルメに、徒党を組んで出没する。この爪木崎とて例外ではない。
この写真はどういう情景かというと、灯台に行く途中の崖の上から、水仙の群落地を眺めているところなのだが、これがおもしろい。灯台に行く途中に、正確な文句は忘れてしまったが、「絶景を眺めたい方はこちら」といったようなことが書いてある看板がある。つられて藪の中を辿っていくと、この写真の崖っぷちに出る。
絶景とは程遠い景色なので、みんなだまされた気持で戻っていく。戻る途中、すれ違う人に大したことないよ、と伝えるのだが、あの好奇心旺盛なおばさん連は、われもわれもと押し寄せて、なあ〜んだ、と言いながら帰っていく。とにかく見ないことには気が済まないのだ。そこを下から見たのがこの写真というわけだ。
どことなくおかしい写真なので、俳句を付けてみることにした。

野水仙バスが吐き出す同世代

観光バスから降りてくるおばさんたちを表現しようとした。「同世代」は、私と同世代の人たちなんだなあ、という感慨なのだが、これでは何を意味するのかさっぱりわからない。

野水仙浮世のバスの好奇心

読んだばかりの漱石の「草枕」が頭にあったので、普段はあまり使わない「浮世」という言葉がふっと思い浮かんだ。それはいいとして、「浮世のバス」とは何だろう。自分は、浮世から離れようとしてここに来ているのに、それを追いかけるようにして、好奇心をいっぱい乗せた浮世のバスがやってくる、というイメージ。わからないか。「バス」が唐突なのだ。

水仙やなべて浮世は好奇心

方向がぶれてしまったが、これはこれ。ただし、「なべて浮世は好奇心」と言ってしまっては、はいそうですか、だからどうしたの、となってしまう。

水仙やとかくこの世の好奇心

もともと「草枕」に刺激されての発想なので、本歌取りではないけれど、「とかくこの世」としたらおもしろいのではないか。普通に考えれば「とかくこの世は好奇心」とした方がわかりやすいのだが、それだと自分の見解を述べているようなので、「は」を「の」にすることで全体を曖昧にし、含みを持たせることにした。
なんだかよくわからないが、写真と組み合わせてみるとどことなくわかる。





南伊豆の正月/1-爪木崎灯台と野水仙

爪木崎灯台と野水仙

野水仙風の岬の陰日向

懐中電灯を貸してもらった石廊崎の食堂で、伊勢海老やらあわびやらの入った雑煮を食べた後、とりたててやることもない。近くの港へ行って、防波堤釣りでのんびり時間を過ごす。まったく釣れないのだが、新春のうららかな日差しの中で、寄ってくる小魚を眺めているだけで気持ちがいい。
目的も計画も何もない旅とはいえ、このまま無為に時間を過ごすのももったいない。というか、私はこれで十分なのだが家族が黙っていない。食堂のおばさんが教えてくれた爪木崎の水仙祭を見に行くことにした。
爪木崎には大昔、かれこれ40年ほども前になるのか、撮影の仕事で、子供のモデルを連れて来たことがある。その時はたしか梅雨時で、水仙の群生地などと知る由もなく、ただただ白亜の灯台の美しさに見とれたものだ。
岬の駐車場を出てすぐに、爪木崎の先端にある灯台と海を一望できる。観光バスが数台やってきて、観光客を次々とはきだす。岬は人で溢れている。肝心の水仙は、岬の急斜面一面に咲いていて、絶景なのだが、なにせ観光客が多すぎて邪魔。この写真は岬の入口から撮影したもの。望遠レンズを使って、観光客が入らないようにしたため、ちょっとスケール感が感じられなくなってしまった。
ここの灯台は素晴らしい。私が知っている灯台の中で、一番好きな灯台だ。崖の上に、大きなろうそくのように一直線にそそり立つ。写真の人の高さから推定すれば、十数メートルはあるだろう。灯台の周りに建物のようなものが何もなく、すとんと立っているところがまたいいのだ。

爪木崎灯台 岬の斜面一面、野水仙の花が満開
▲左:爪木崎灯台。伊豆七島が一望できる。右:斜面一面に群生する野水仙の花。

群生する野水仙 野水仙のアップ
▲左:雑然と咲き乱れる花。右:野水仙のアップ。素朴なところがいい。

灯台の近くから、急な石段で一気に海岸に降りると、岬の北東の斜面一面に咲いている水仙の花を眺めることができる。斜面の下の平らなところにある花は、栽培されているものらしいが、斜面にある花は自生のようだ。斜面の中腹にある大きな石に、「野水仙群落地」と、白いペンキで無造作に書いてある。この日は風もなくおだやかだったのだが、普段はもっと風が強いのだろう、花があちこち倒れている。

野水仙風に乱れて爪木崎

状況はわかるが、何も感じない句だ。「爪木崎」と、場所を特定する必要があるだろうか。見た目も音も感じのいい字で、どこか詩的なのだが、歌謡曲のようであまり意味がない。

灯台の風蕭蕭と野水仙

この句は、「風蕭蕭」が肝なのだが、よく使われる常套句か。「野水仙」が、他の言葉と響きあわず浮いている。

風岬陰に日向に野水仙

岬の斜面に日があたり、その陰影がおもしろい造形を見せている。そこを表現してみた。どこか、何か感じるのだが、もう一つ迫ってこない。説明になってしまっているからなのだろう。

野水仙風の岬の陰日向

少しはよくなったのか。動詞も形容詞もなく、ごつごつした感じが気になる。





石廊崎の初日の出/6-アロエの花

アロエの花アップ

初空やアロエの花の赤きこと

崖沿いの道の下に石廊崎港が見えてくる。正月だからなのだろう、港は静かで、船はほとんど船着き場の上に引き上げられている。崖の縁には、異様に赤い色の目立つ花が群生している。アロエだ。
アロエは、家のベランダにもあって、やけどした時などは重宝しているのだが、かれこれ30年は育てているのに、花の咲いた試しがない。アロエに花が咲くというのも初耳だが、こんな大きく赤い花が咲くとは想像もできなかった。この後、南伊豆をいろいろ回ってみたが、どこにいってもこのアロエの花が咲いている。どうも南伊豆の名物らしい。
アロエの花は一見、滴る血を思わせてどことなく不気味だ。ただ、近づいてよく見れば、やはり花は花、かわいらしく可憐だ。

アロエの花 崖の下の石廊崎港
▲左:崖の縁に群生しているアロエ。右:崖沿いの道から見下ろした石廊崎港。

この俳写のポイントは、アロエの花の珍しさと、その毒々しいまでの花の赤さを、どう感じて、どう表現するかということ。

初空や伊豆の南端赤き花

すっきりと晴れ上がった伊豆南端の正月の空。南国らしい赤い花が咲いている、と、それだけ。「初空」はまあいいとして、「赤き花」というのはどうもイメージできない。ハイビスカスを思ってしまう。

初空にアロエ花咲く石廊崎

「アロエ」と実名を出してしまったが、ほとんどの人はアロエの花など見たことがなく、どんな花か想像もできないだろう。「アロエ花咲く石廊崎」も、どうも小学生唱歌か歌謡曲のようで気に入らない。
考えてみれば、ここのポイントはアロエの花にあるので、「石廊崎」などと場所を特定する必要はない。

初空にアロエの花の血の如く

血のようにどことなく不気味な赤、そこを強調したのだが、「血の如く」では、まさにそのまま。赤い花を「血の如く」と表現するのは、陳腐そのもの。
自分でいうのも変なのだが、私の作る俳句は、どうも一本調子のように思える。展開が平凡で次にくる言葉が予測できてしまうのだ。もっと、五七五の中にコペルニクス的転回が欲しいのだが。

初空やアロエの花の崖っぷち

ここは「崖っぷち」にいろいろな思いを託してみた。実際、アロエの花が崖の縁に咲いていたということもあるが、私の年頭の所感を表わしたものでもある。私にとって、まさに今年は「崖っぷち」。このまま私が会社に残ることは、会社にとっては百害あって一利なしだろう。それこそ、何かコペルニクス的転回が必要だ。
「崖っぷち」が嫌味で理屈っぽいか。もっと軽くいきたい。

初空やアロエの花の赤きこと

「赤きこと」と、なんとなく中途半端な表現にしたのは、アロエの花の赤があまり好きではない、なのになぜか気になる、ということを表現したかったため。アロエの花はもう絶対忘れることはないだろう、といった感じとでも言えばいいか。
あまり独創性もなくウイットも感じられないが、「赤きこと」に免じてよしとするか。





石廊崎の初日の出/5-初景色

人の顔に見える岩

老いぼれてマリアを見たり初景色

初詣も済まし、夜明けに懐中電灯頼りに歩いてきた道を戻る。来るときに、暗くて迷った道は、実は今はもうやっていないテーマパークのようなところの道のようだ。壊れた建物や昔の住居跡のようなものが残っている。港に向かってだらだら坂道を下ってくる途中の景色はすばらしい。深い入り江になっていて、遠くに海が光っている。
港近くまで来て、深い崖になっている対岸の岩を何気なく眺めていて、はっとした。岩が人の顔に見える。先に歩いていた妻や子供たちを呼び止め、そのことを話したのだが、まったくわからないようだ。疲れてんじゃないの、と一笑されてしまった。
悔しいので写真に撮ったのだが、見れば見るほど人の顔に見える。白い岩の一番上が顔。髪の長い女性の顔に見える。全体的には、ゆったりとした白い衣服をまとい、きちんと膝を揃えて座っている。右手は膝に、左手は軽く上げて、vサインをしているようだ。足元には何かいるようだが、どうもはっきりしない。
正月早々、縁起がいいというか悪いというか。どうも耄碌して目がかすんできたのか、写真に写っているのだから、耄碌のせいではなさそうだ。偶然とはいえ、不思議なことがあればあるものだ。

テーマパーク跡 石廊崎の風景
▲左:今はないテーマパーク?跡。右:石廊崎から港に降りる途中の景色。

初景色深き入江に仏かな

自分ではわかっているのだが、他人にはわからない俳句だ。ただ何の変哲もないつまらない俳句としか思えない。

初景色岩が仏に変わるとき

正月らしく、ちょっとシュールにというか幻想的にしてみたが、これもなんだかわからないか。

初景色岩か仏か耄碌か

ただの岩なのに、霊視で人の顔にみえるのか、単純に耄碌しただけか。と、家族に馬鹿にされたこともあって、ちょっと自嘲的にしてみた。「耄碌」という言葉がどうもいやなので、

老いぼれて仏を見たり初景色

としてみる。どこが悪いのか、どうもぱっとしない。「仏」が古臭いのか。この顔は、どう見ても仏には見えない。どちらかといえば受胎告知のマリアに見えなくもない。足元でごちゃごちゃ戯れているのは、子羊か。

老いぼれてマリアを見たり初景色

「仏」を「マリア」にするだけで、随分と雰囲気が変わってしまった。これならなんとかなるか。「老いぼれて」を何とかしたいのだが……。





石廊崎の初日の出/4-石室神社

石廊崎石室神社

潮騒に光しぶくや初詣

初日の出が一段落すると、今度は初詣。ここは、初日の出と初詣がセットになっていて、非常に便利だ。
石室神社という、垂直に切り立った断崖の途中にへばりつくようにして建てられた神社で、あとで調べたところによると、ここに祀られたのが5世紀頃と、かなり歴史があり、伝説なども残っている由緒ある神社らしい。
うっかり、全体を写真に撮るのを忘れてしまったのだが、状況としては、断崖の途中(水面から約20メートル程?)に、おそらく岩に穴をあけて、小さな祠(ちょっと昔の家の神棚のような大きさ)をつくり、それを包み込むように、屋根つきの家を作った、といった感じ。それなので、見た目は、断崖から家が突き出しているように見える。
なぜ、そんな風になっているかというと、そこには伝説があって、まあ、簡単に言うと、昔、船が嵐にあった時に、神様に嵐を鎮めてもらったお礼として、帆柱を切って、海に流した。するとその帆柱は、波に流され、祠の下の岩にひっかかったので、それを土台として祠を囲った、ということらしい。この話は、インターネットで調べると、もっと詳しくわかりやすく書いてあるので、興味のある方は、そちらを観てほしい。
ちょっと説明が長くなってしまった。この写真の、すぐ左に小さな社があり、鏡が祀ってある。手を伸ばせば届きそうだ。この床の20メートル下は海、床が抜ければ真っ逆さま。右手は初日が出てきた海だ。
この写真の面白いところは、光線。真横から光が来ていて、その光が一直線に祠の中のご神体の鏡を照らし出しているところだ(残念ながらご神体は写っていない)。手前左の台の上にあるのは、お札やお守り、おみくじなどなのだが、素朴な感じがたまらなくいい。
人はほどほど、静かで潮の香りがし、海の音が聞こえる。何とものどかな初詣だ。

石室を貫く海の初日かな

「貫く」が工夫なのだが、なんだかわからない。
ここでのポイントは、滅多に見ることのない、水平に差し込む初日の光と、断崖に立つ素朴な神社の風情だ。

断崖の神社は初日一直線

こんな句は紹介する必要もないのだが、まあ、この場合の句のコンセプトとして、メモ代わりということで……。

潮騒と光の中の初詣

海は静かとは言え、岩場にあたって砕ける波の音が大きく聞こえる。太陽は昇り切り、周りは新しい光に満ちている。こんな環境で初詣ができるなんて、なんと素晴らしいことか。
ちょっとおとなしくて平凡。耳に、心に残る言葉が欲しい。

潮騒に光弾けて初詣

少しよくなったか。「光弾けて」が新春らしさを出しているかもしれない。が、まだ一つ弱い、というか納得できない。説明的なので、もっと心を出すような表現が欲しい。

潮騒や光弾ける初詣

何とも言えない。

<推敲>

この「潮騒や光弾ける初詣」がどうも気に入らないので、変えてみる。

潮騒に光しぶくや初詣

「光弾ける」が月並みなので「光しぶくや」に変えた。字面をみるかぎり、地味になってしまった感があるが、「潮騒」と「しぶく」を呼応させることで、より印象を強めている。ずいぶんよくなった(たぶん)。

咳と鼻汁で大慌て。ぶれぶれ写真

咳をして鼻汁たらす初詣

俳句の条件は何か、俳句と呼ばれるためには何が必要かを考えてみた。もちろん、五七五、17文字は大前提だ。

一つには、独創性。いわゆるアイデアが必要だろう。誰もが思いつくことを、誰もが思いつくであろう言葉を使って作るのでは、俳句を作る意味がない。新しい発想、新しい言葉が必要だ。

二つ目は、ウィット。どこかおかしいとか、しゃれているとか、思わず微笑んでしまうような、やられた、と思うようなそんな感覚。重々しい言葉や深刻な表現は、俳句には似合わない。

三つ目は、レトリック。俳句は文字数が限られている。アイデアがあってウィットに富んでいても、普通にただ叙述するのでは、言葉が足りず説明しきれないし、印象にも残らない。たった17文字で、人の心に響き、深い感銘を与えるためには、レトリックを駆使する必要がある。

といったところか。先の俳句「潮騒に光弾けて初詣」をこの条件に当てはめてみると、どれも中途半端なことがよくわかる。

このぶれぶれの写真は、写真を撮っているときに、ちょうど咳が出て、それを我慢しようとしたために、鼻汁がどばっと出てしまったときに、シャッターを切ったもの。この写真を見て、そのことを思い出し、これはおもしろいかも、と思った。
「鼻汁」と「初詣」。この組み合わせはユニークだ。まだ誰も作ったことがないのではないか。「鼻汁」と言っただけで、呆けかけた初老の男がイメージされ、ユーモアも感じられる。いま、ふと藤沢周平の短編「ただ一撃」を思い出してしまった。あとは、どう料理するかだ。

鼻汁をふきふき参る初詣

ちょっと茶化しすぎで、江戸川柳のようになってしまった。鼻汁とはいえ、どこか共感が得られるようなものでなければだめだ。

咳すれば鼻汁弾け初詣

わかるけれども、これは説明的。

咳をして鼻汁たらす初詣

自嘲的なところがなんとも言えずおかしい。「初詣」ではなくともよさそうだが、「初詣」だからこそおかしい、ということもある。これが「咳をして鼻汁たらす冬の空」では、おかしくもなんともない。ただ哀れなだけ。








石廊崎の初日の出/3-太陽出現

太陽現る

気を持たせ突如ぴかりと初日かな

太陽は突然現れた。
雲は輝きはじめ、太陽ががすぐにでも出てきそうで、なかなか出てこない。みんな息をのんで見つめている感じだ。待ちくたびれて、まわりの島の写真を撮っていたときだった。突然、「ぴかり」という感じで、太陽が現れた。なんと言えばいいのだろうか。突然目の前でライトを点けられた感じ。
どよめきが起こる。携帯のカメラのシャッター音が響く。柏手を打つ人がいる。
私はといえば、唐突に、中学時代、教科書に載っていた与謝野晶子の詩「太陽出現」を思い出した。諳んじていた。頭の中では、映画2001年宇宙の旅の音楽、シュトラウスの「ツアラストラはかく語りき」が鳴っている。
太陽を拝もうとか、何かお願いしようなどとは、全く思わない。太陽が昇るのをただ茫然と眺め、夢中でシャッターを押しているだけだ。

石廊崎の初日

なすがままただ呆然と初日の出

太陽は意外に早く昇る。あっというまに明るくなって、岩の上にいた人たちも帰り始める。すぐ傍には、断崖にへばりつくようにして、石室神社(いろうじんじゃというらしい)があり、そこで初詣をして帰るのだ。崖の下を見ると、さっき船で渡してもらった釣り人が、岩の上で初日を眺めている。海は穏やかで、釣果は期待できそうもない。

初日を浴びる伊豆諸島 初日を浴びて釣り初め
▲左:新島の陰から昇る初日。右に見えるのが新島で左がおそらく鵜渡根島。右:初釣りを楽しむ釣り人。

新年の俳句というものをどのように作ったらいいのか、私には全くわからない。歳時記を見ると、やはりおめでたい感じややる気を表わすような句が多いようだ。
私の場合、新年だから特別という感覚はなくて、初詣なども、できることならやりたくないのだが、今日のように日の出を見たりすると、その荘厳さに心打たれる。だからといって、決意を表明するとか、よし、生きるぞ!などといった感慨は出てこない。さて、何を俳句にするか。

初日影島々近し石廊崎

まず、石廊崎の印象。何とも、ただの叙述にすぎない。

うなさかに初日揺らぎて石廊崎

「うなさか」という言葉は、藤沢周平の小説によく出てくることもあって、好きな言葉で、いつか使ってやろうと思っていたのだが、この場面にはぴったりと当てはまるようだ。ただ「石廊崎」という地名を出した方がいいのかよくわからない。石廊崎だから「うなさか」がぴったりくるということも言える。「石廊崎」をやめたらどうなるか。

うなさかやゆらりと初日揺らぎたり

ちょっとつまらない。

うなさかに初日ひと揺れ旅立たな

「旅立たな」は、一人でどっかに行きたいな、いった軽い逃避の気持ち。
こんな俳句でいいのだろうか、と自問自答。答えは、「つまらない」。誰も作らないような俳句、軽くウイットの利いた斬新な俳句はないだろうか。

気を持たせ突然ぴかっと初日の出

変わっているけどくだけすぎか。

気を持たせ突如ぴかりと初日かな

これはこれとして置いといて。何かもっと感性を感じる言葉が欲しい。

あるがまま呆然と見る初日の出

まさにその時の状態そのままなのだが、これだと単なる状況説明でしかないので、

なすがままただ呆然と初日の出

と、気持ちを表現してみた。もっと何とかなりそうなのだが、考えることに疲れたので、今はひとまず、ここまで。





石廊崎の初日の出/2-初日の出を待つ人々

石廊崎突端で初日を待つ人々

岩に立ち海鵜の如く初日待つ

岩場には、柵のついた通路があり、2〜30人の人が群がっているのだが、そこからだと、人が邪魔になって撮影ができない。ポジションとして一番いいのは、突端の岩の上なのだが、そこはすでに埋まっている。少し後ろにある崖の上で撮影することにした。そこにも10人前後の人がいて、場所がないのだが、斜面の岩の出っ張りに左足を乗せ、右足は、その少し上にある出っ張りに乗せる。左足下がりの非常に苦しい体勢だ。
14ミリから45ミリのズームと70ミリ-300ミリのズームをつけたカメラ2台を首から下げ、手持ちで撮影。感度をISO-1600にしても、シャッタースピードは1/100秒にもならない。手ぶれ防止が付いているとはいえ、望遠側は、完全に手ぶれを起こすがしょうがない。
6時過ぎにその場所で構えているのだが、太陽は出そうでなかなか出てくれない。日の出の時間は6時50分なので、まだまだ間がある。足が疲れて足場を変えたいのだが、足を置き換える場所がない。前方の岩の上の人たちも、ほとんどずっと突っ立ったままだ。
この写真ではよくわからないが、みんなが立っている岩は、水面20メートルはあるかと思える、断崖の上なのだ。その下に、灯りをつけた船が近づいてくる。釣り人を、海に突き出た岩礁に渡す渡船だ。大きな波が来たらすっぽりと隠れてしまいそうな、小さな岩に、二人の釣り人を、非常に巧みなタイミングで下した。
遠くの崖を、望遠レンズで覗いてみると、崖の下の出っ張っている岩場にも、数人の釣り人がいる。回りには奇岩の島も点在し、じっくり構えれば、いい写真が撮れそうだが、今日はこの場所で我慢。

釣り人を乗せた船 崖の下の岩の上の釣り人
▲左:灯りをつけた渡船。右:石廊崎の断崖と岩場に乗った釣り人たち

石廊崎の岩礁 石廊崎突端の岩場
▲左:フォトジェニックな奇岩。右:初日の出に興奮する人々

待っている時間は長い。見渡せるものはすべて写真に撮ってしまって、何もすることがない。よろよろしながらやっと登ってきたので、足ががくがくしている。体勢を変えたい!

足もとのおぼつかなくて初日待つ

自分ではよくわかる俳句なのだが、他人にはおそらく何のことかわからない。この辺が俳句の難しいところだ。
写真の岩には20人近くの人が乗っているようだ。頂上に4〜5人、岩の斜面にへばりつくようにして10数人はいる。海の正面側には、もっと多くの人がいるかもしれない。まるでガラパゴスの海イグアナのように動かない。

初日待ちイグアナのごと岩に立つ

初日とイグアナはおもしろい、と思ったのだが、こうして五七五にすると面白くない。ちぐはぐな感じがする。また、ただシルエットがイグアナに似ているという、状況の説明にしかなっていない。

初日待ち海鵜の如く岩に立つ

イグアナを海鵜に変えてみる。すっきりした感じにはなった。海鵜は、岩の上にすっくと立って身じろぎもしない。どこか孤独感を漂わせ、孤高の鳥という感じだ。そういう意味では、海鵜にたとえるのも悪くはないか。
ただ、すらすら流れてしまって、ひっかかりのないのが気になる。

初日待つ海鵜の如く岩に立ち

「初日待つ」と、一端切ってみた。ところが、「初日待つ海鵜」と、初日を待っている海鵜ともとれる。そこが気に入らない。また、句の前後を入れ替えたのも変だ。
考えてみれば、この句の主眼は、岩に立っていることではなく、ある種荘厳な気持ちで、初日を待っているということだ。そのある種荘厳な気持ちを、ここでは「海鵜の如く」と置き換えている。たまたま岩場に身じろぎもしないで立っている様子が海鵜のように感じたからだ。この句では、この「海鵜の如く」が肝だ。とすれば、「海鵜の如く岩に立ち」はおかしい。状況説明でしかない。

岩に立ち海鵜の如く初日待つ

素直に「海鵜の如く初日待つ」とした。写真がない方が、力が感じられる句だ。「海鵜の如く」とはどういうことか、それを感じるのは読者だ。詠み手は、自分の感性を表現しただけ。と、とりあえず、今は逃げておく。あまりいい句ではない。






石廊崎の初日の出/1-日の出前の石廊崎灯台

日の出前の石廊崎灯台

灯台の瞬くごとに年明くる

医者の勧めもあって、今年の正月は伊豆の下田で過ごした。大晦日のカウントダウンと同時に、穴八幡のお札を貼り付け、家を出たのが午前一時。石廊崎の日の出は、午前6時50分なので、十分間に合うと思っていたのだが、カーナビの計算では、到着予定時間が7時40分となっている。急がないと初日の出に間に合わない。
東関東道から首都高速を抜け、東名高速道へ。途中、大した渋滞もなく、沼津で東名を降りたのが三時過ぎ、到着予定時間は、7時15分になったが、それでもまだ間に合わない。
なぜか、真夜中なのに沼津市内でちょっと渋滞したものの、伊豆に入ってからは、すれちがう車はほとんどなく、快調に時間を短縮していく。下田に出たのが5時ちょっと前、石廊崎の駐車場には、5時半に到着した。早く着いたつもりだったのだが、駐車場は満杯だ。
外はまだ真っ暗で寒い。星がこぼれおちてくるように、すぐ近くに見える。売店の前にいたおばさんに、初日の出見物スポットを聞く。山を登った先に灯台があり、その近辺がいいという。歩いて15分程度かかるそうで、すぐ出かけた方がいいという。足もとが暗く危ないからと、懐中電灯を貸してくれた。確かに、山道は暗く、懐中電灯があっても危なっかしい。途中、道がいくつも分かれていて、迷いながらようやく灯台の見えるところに着いた。
灯台の向こうには海が見え、空がうっすらと赤みを帯びている。いつの間にか、星もほとんど見えなくなった。人がほとんどいなくて、どこで見たらいいのかわからない。よく見ると、灯台の横の小高い岩には、すでに家族連れが陣取っている。
灯台の横の坂を、岬を回るように下っていくと神社がある。電気が付いていて神主さんがいたので、見る場所を聞いてみると、この辺ならどこでもいいという。伊豆半島の突端なので見渡す限り海、遮るものは何もないのだ。
暗くてわからなかったのだが、よく見れば、すでに、大きな岩の上に人が大勢いて、イグアナのようにうごめいている。

石廊崎から伊豆諸島を望む 神子元島
▲石廊崎の突端から見た伊豆諸島。右は神子元(みこもと)島と有名な灯台。

空はどんどん明るくなってゆき、懐中電灯はもう必要なく、海の向こうには、伊豆諸島が見えてきた。後で地図で調べてみると、左から、大島、利島、鵜渡根島、新島、式根島、神津島が並び、その奥に、三宅島、御蔵島が見えるようだ。
すぐ近く(といっても石廊崎から11キロ先)には、神子元(みこもと)島がはっきりと見える。神子元島の灯台は、明治の初めにできた日本初の灯台ということで有名のようだ。今はダイビングスポットになっているらしい。

俳句は、まず、灯台の灯りとようやく明け始めた空の色の組合わせが感動的だったので、そこを詠んでみることにした。

灯台の灯の薄れゆき年新た

空はどんどん明るくなり、灯台の灯りは薄れていく。やがて、日が出て新しい年が始まる、といった感慨。
石廊崎の灯台は、天気予報などで有名で、特に台風の時はテレビなどでも紹介される。その灯台がいまここにあって、そこから新しい夜明けが始まろうとしている。なんと素晴らしい光景ではないか。ということを言いたいのだが、どうもうまくいかない。感動がまったく表現されていないようだ。

灯台の灯の揺らめきて年明くる

灯りを揺らめかせてみた。少しは動きが出てきたが、つまらない。常識的でひっかかるものがない。「灯台の灯」というのももたついている。

灯台の瞬くごとに年明くる

「瞬くごと」とは、光が回ってくるたびに、という意味。灯台が、ぴかり、ぴかりと光るたびに、空が明るくなっていき、年が明ける。ちょっと理屈っぽいか。

灯台の瞬くがごと年明くる

とした方がインパクトがあって面白いのだが、これではまったく意味がわからない。
新年の第一句としては、非常にプアな句になってしまった。今年は調子が悪いか?





箱根マジックアワー

初冬の箱根の山

魔の時のやがては闇に山眠る

三谷幸喜の映画のタイトルにもなっている「マジックアワー」。もともとは、映画の業界用語で、太陽が沈んだ後の、ものが最も美しく見える時間帯のことを言うらしい。いわゆるたそがれ時で、日本語にも古くからある「逢魔が時」と似たような感じ方なのだが、ひょっとすると「マジックアワー」というのは、日本の映画人が「逢魔が時」を単純に英訳して言い出したのかもしれない。
確かに、太陽が山に隠れたばかりの時間帯は、空のやわらかい残光で、すべてのものの影が失われ、形も色も混沌とした、何か怪しげな雰囲気を醸し出す時間帯でもある。
この写真は、箱根の仙石原から乙女峠に向かう途中に、車中から撮影したもの。枯れた雑木の奥の山と、杉の植林された手前の山の、やわらかな色のコントラストは、まさに「マジックアワー」ならではの雰囲気だ。東山魁夷の世界を思わせる(写真の良さではなく、イメージのこと。写真はブレブレで全く駄目)。
俳句的に言えば、「山眠る」の季語がぴったりの、古い情緒の世界だ。私は古い人間なので、こういう景色は嫌いではない。

たそがれや箱根の山は眠る頃

「山眠る」の季語を、そのままの形では使いたくなかったので、ちょっとひねったつもりなのだが、意味がなかった。つまらない句だ。

しんしんと光融け合い山眠る

「しんしんと」は、初冬の箱根の山の、足もとから突き上げてくるような寒さと静けさを表現、「光融け合い」は、まさにマジックアワーの混沌とした世界を表現したつもり。
「しんしんと」は、ちょっと違和感がある。後に続く「光融け合い」の言葉とも馴染まないし、写真のちょっと暖か味のある柔らかさとも合っていない。
「光融け合い」は、影というものがどこにもない、すべてが闇の中に入ってしまう前の微妙な光と時間なのだが、表現に厭味があるような気がする。

魔の時の光は闇に山眠る

魔の時」は、マジックアワーのこと。句は、説明するまでもない、単純な句で、素晴らしい景色、時間も一瞬のこと、やがては闇の中に消えていく、といったようなこと。「光は闇に」が嫌味だし、ありそうだ。

魔の時のやがては闇に山眠る

納得できないが、とりあえずアップ。もっと検討する必要がある。






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