かなかなと帰る

愛宕トンネル

かなかなと愛宕トンネル帰りけり

入院した病院は愛宕の近くで、去年の九月から十月にかけて、放射線治療で毎日通った病院だ。神谷町駅で地下鉄を降り、愛宕トンネルを抜けて通っていた。
そのトンネルを、見舞いにきた妻が帰っていく。頭上の愛宕山では、かなかなが激しく鳴いている。
信号が変わると、私は、トンネルを背に病院へ戻り、妻はトンネルを抜けて日常へ帰っていく。これまでは想像もしなかった風景だ。

かなかなのトンネル抜けて帰る人

「帰る人」というのは、どうも情がからんで面白くない。「かなかな」がさびしいので、ここはもっとさらっといきたいところだ。

かなかなのトンネル抜けて帰りたり

まだちょっと甘いようだ。これだと帰るのは自分で、何か仕事に疲れて、かなかながなく夕暮れ、とぼとぼと帰っていくように思える。
まあ、それでもいいのだが、どうも思っていることとは違う。
かなかなの鳴く中、帰って行ったというそれだけのことが、一本調子で散文的に表現されているので、そこからイメージがあまり広がらないのだ。

かなかなとトンネル抜けて帰りけり

「かなかなの」を「かなかなと」にして、「帰りたり」を「帰りけり」にしてみた。こうすると、自分はここにいて、帰っていくのは誰か別の人、という感じにならないだろうか。
かなかなと一緒に誰かがトンネルを帰って行ったんだなあ、かなかなの声ももう聞こえなくなった、ということ。
それにしても、一本調子でしまらないことには変わりがない。だらだらと感じるのは「抜けて」「帰りけり」と、動詞を二つ重ねているせいもある。

かなかなと愛宕トンネル帰りけり

「抜けて」は言わずもがななので、トンネルを固有名詞にして見た。この方が少しはぴりっとする。
「愛宕トンネル」とすることで、山の中ではない、都会のど真ん中のトンネルだというおもしろさも出てきたような気がするが、どうだろうか。
このトンネルの写真は、実際の愛宕トンネルで、先日検査をした帰りに撮影したもの。





転がる目玉

捨てられたマネキン

寝返れば目玉転がり遠い蝉

入院の前の晩、はじめのうちは、眼の周りが腫れているだけで痛みはそれほど感じなかったのだが、真夜中になって、痛みで目が覚めた。
目が覚めてしまうと、痛みで全く眠れない。そのうちに、仰向けに寝ると痛みが増して、右横向きやうつ伏せに寝ると痛みをそれほど感じないことに気がついた。
目玉は想像以上に重いようで、仰向けに寝ると、その目玉の重みが目の奥にある何か腫物のようなものを圧迫し、それで痛みが増すようなのだ。体の向きを変え、目玉の重力を腫物からずらしてやると少し楽になる。
それでも眠れないで何度も寝返りを打っていて、うっかり仰向けになったりすると頭にがんとくる。幻聴なのか耳鳴りなのか、真夜中だというのに、どこか遠くでさかんと蝉が鳴いている感じがする。

寝返れば目玉寝返る夜の蝉

眠れないので、枕元の俳句手帳に俳句をメモって見る。寝返るたびにずしりと感じる目玉の重みと頭の中で鳴いている夜の蝉を思いつくままに五七五にしたもの。何の悩みもなくパッと出てきたものだ。
一応自分でも満足して寝ようとしたのだが、痛みで眠れない。今作った俳句が頭の中で勝手に推敲されている。
「寝返る」を繰り返すことでリズムをとっているのはいいのだが、どうもつまらない。きれいすぎてなにもひっかからない、というか、内容が何もなく何のことだかわからないのだ。「夜の蝉」というのも、どこか調子でぽんと出てきた感じがする。

寝返れば目玉転がる秋の蝉

悶々としながら、「目玉が転がる」という表現を思いついた。まさに、寝返るたびに目玉が眼の中でごろんごろん転がる感じなのだ。
「目玉転がる」という表現は、非常にインパクトがある。
普通、「寝返れば目玉転がる」と言えば、寝返ると目玉が目から外れてごろんごろん転がっていく様子を表現していると理解する。ところが、そんな状況はまず考えられないので、おそらく読む人は、何かの比喩か象徴なのだろうと解釈するはずだ。非常に難解な俳句だと思うに違いない。そこが面白い。
しかし、実際に作っている側は、そんな難解なことは考えていない。感じたままを素直に表現しているだけだ。結果として読者には難解に見えている。

句の解釈は読者の自由なので、それはどうでもいいのだが、いま改めてこの句帳のメモを見ると、作者としては、「目玉転がる」と「秋の蝉」の繋がりに不満を感じる。すんなりといきすぎて常識的なのだ。俳句の作り方の見本のような繋がり方なのだ。

寝返れば目玉転がり蝉遠し

と直して見た。少しストーリー性が出てきたように思えるが、まだすんなりといきすぎているようだ。どこかで崩したい。

寝返れば目玉転がり遠い蝉

どこかちぐはぐな感じ、不安定で落ち着かないところに、作者の不安や動揺を感じないだろうか。
写真は、これも深川の路地に捨てられていたオブジェ。どうも発泡スチロールでできたマネキンか洋裁の時に使う人体のようだ。不気味な感じだが、その夜の異常な感覚を表現するにはぴったりのような気がする。
ただし、あまり見たくない写真だ。





目を病む

重い眼の玉

病みし眼の眼の玉重し虫繁し

目を痛めてから、入院して退院するまでのおよそ二週間、パソコンに向かうことができなかったので、ベッドの中で悶々と俳句などを考えていた。
不思議なもので、目が痛くて耐えがたいときでも、俳句がひょいと浮かんだりする。それを忘れないように、枕元に置いた、雑誌「俳句」五月号の付録の俳句手帳に書きつける。
病院のベッドで真夜中に思いついたりすると、大部屋なので電気を付けるわけにもいかず、かといってメモしないと忘れそうなので、そっと起きだして、トイレでメモったりした。
その時は何となく面白いものができたような気になるのだが、朝、見直してみると、大したことのない句がほとんどで、がっかりさせられる。
今もその時の手帳を見直しているのだが、暗く重い句が多い。普段は、まず写真があって、そこから句を連想することが多いので、ある程度冷静に作ることができるのだが、今回の場合は、当然、頼りになる写真などなく、頭の中でこねくり回して作るので、どうしても感情的な句ができてしまうようだ。

この句は入院する前、目が一番腫れあがっている時に作ったもので、目はまだそれほど痛みはないのだが、非常に重いと感じていた時のもの。目の玉の重さなど普段は全く気にならないが、この時は、頭から目が吊下がっているような感じで、こんなに重いものだということを初めて知った。

秋の夜の眼の玉重く吊り下がる

目の病気になって最初に浮かんだ句。自分ではわかっているつもりなのだが、冷静になって考えてみれば、不気味な感じがするだけで、何のことだかわからない。

病みし眼の眼の玉重し虫繁し

この時は、痛みもそれほど感じていないときだったので、手直しする余裕があった。結構言葉の遊びを楽しんでいる。
窓の外では、もう虫が鳴き出していて、秋を感じさせる。ちょっともたついた感じもあるが、それほど悪くはない。「病みし眼の」と説明しなければわからないところが苦しいところだが、まあ、これならそれほど重くなくユーモアもあっていいかなと・・・。
ところが、この句に付ける写真がない。今年の春、深川の下町住宅街の道路横に雨ざらしになって置いてあった小さな石膏像をちょっとおもしろいと思って撮影したものがあったので、その写真に合わせて見る。合っていると言えば合っているが、暗く重くなった感じがしないでもない。





そろりそろりとブログ再開

濡れた眼

かなかなや野生の眼みな濡れて

みなさん、お騒がせしてしまって申し訳ありませんでした。励ましのコメントやメール、ありがとうございます。
退院の予定が一日ずれてしまって、9月3日に退院したのですが、目の状態が非常に不安定で、パソコンを見たり、入力したりすることが思うようにできず、ずるずると休んでしまいました。
昨日、精密検査をして、ほぼ回復しているということで、あとは目薬と飲み薬で様子を見ることになりました。癌との関連はなさそうで、ホッとしているところです。
入院中も俳句はちょこちょこメモっていたのですが、写真がないので俳句写真になりません。しばらくは古い写真などを使いながら、ゆっくりと更新していきたいと考えています。

この句は、入院する前、動物園シリーズとして作ったものです。目の病気の予感があったのか、目に関する俳句と写真になっています。偶然の一致でしょうか。





明日退院予定

点滴の冷たし未だ明けやらづ

やっとパソコンを見ることができるところまで回復し、
今日のMRI検査で問題がなければ、明日は退院予定。
病名はまだはっきりしないが、左の眼球裏に
何かぶつぶつしたものがあり、それによって
激しい炎症を起こしたものらしい。
ウイルス性ということも考えられるということで、
抗生剤の点滴でとりあえずウイルスをたたき、
炎症を抑える治療を行ったらしい。
眼球を動かす筋肉にも炎症が及んだため、
今のところ眼球の動きが不自由で、左右の視野があわず、
ものが激しくダブって見える状態だ。
ぶつぶつが完全に消えたわけではないが、
炎症が治まって、何とか視力も回復してきたので、
ひとまず退院し、通院しながらの治療となる。

ここまで書くのもかなり苦痛なので、
この続きは退院してから・・・

慌しく台風去って退院す





秋は来ぬ

羊雲

羊群の渡りて行くも秋燕

先週の日曜日の真昼、駅前広場で空一面の羊雲を見た。この猛暑の真っ最中に、羊雲は似合わないが、確実に秋が近づいてきていることを教えてくれる。
ちょうど動物園に行く途中で、超望遠レンズの付いたカメラを持っていたので、何気なく一枚撮って、後でパソコンで見ると、黒いゴミのようなものが写っている。拡大してみたらツバメだった。肉眼では全く見えない高い所を飛んでいたのだ。
おもしろいとは思ったが、写真的には地味なので、そのままにしておいた。しかし、考えてみれば、この雲の写真は、猛暑のこの時期だから面白いのであって、秋になってから掲載したのでは何も面白くないことに気がついた。
動物園シリーズの途中だが、取り急ぎ、俳句を付けることにする。

秋来ぬと目にもさやかな雲の群れ

おもしろい!などと一人でにやにやしていたのだが、見ているうちにだんだんつまらなくなってきた。
単なるパロディ、一発ギャグだ。

見上ぐれば雲の形に秋は来ぬ

たしかに状況はそうなのだが、これは私が考えている俳句ではない。

いつになく燕の高し秋の空

いつになくツバメが高い、ということは、そろそろツバメが帰るということを暗示している。つまり秋だということ。そうなると下五が「秋の空」では、まったくつまらないことになる。
さらに、この句はツバメに目が行っているが、メインは雲なのではないか。この場合、ツバメはアクセントでなければならないのではないか。

羊群を追いかけて行く秋燕

ちょっとあたりまえだが、羊雲を「羊群」と漢語にし、ツバメを「秋燕」と漢字にして句の前後に置いて対比させて見た。「秋燕」は「しゅうえん」と読ませたいところだが、字数が四文字なので具合が悪い。「あきつばめ」と読まざるを得ないところが残念。
句としては、擬人化が説明的で陳腐なのでつまらないものになっている。

羊群の渡りて行くや秋燕

「羊群」と「秋燕」を状況説明として使うのではなく、言葉の対比というか、取り合わせとして衝突させて見た。
写真がなければ「羊群」が、雲のことではなく実際の羊の群れと理解されることは間違いないところだが、それはそれでもいいとして、「や」が気になるところだ。古いというか安易と言うか。
空を渡っていくのは、「羊群」であり「秋燕」でもある。そこをうまく、個性的に表現したいのだが・・・

羊群の渡りて行くも秋燕

清少納言ばりに、「も」としてみた。
「秋の空は、羊の群れの渡りたるもおかし、まして秋燕の三羽四羽渡りたるはさらなり」といったところだ。





牛の角

牛の角

秋の日の溜息深し牛の角

牛の角をじっくりと見たことなどない。こうしてアップで写真に撮ってみると、なかなか威厳がある、というか造形的に面白い。
この面白さを俳句にすることなど無理な相談だ。俳句などなくても十分だ。

今日はこれから病院に行かなくてはならない。いつもの検査ではなく、目と放射線治療、ステロイドとの関係などを聴きに行くためだ。
最近目の調子が悪い。急激に進行していくようだ。





さまざまな猿

咆える猿

声高に咆えるものあり秋暑し

昨日は猿の写真を掲載したので、ついでにもう一つ猿の写真。
この千葉動物公園には、さまざまな猿がいて、それぞれに個性があり、見ていても飽きない。表情やしぐさが豊かなので、写真を撮っていても面白い。時間がなかったので、名前を控えることも忘れ、ただ撮りまくってきたため、何という猿なのかさっぱりわからない羽目になってしまった。
いろいろおもしろい写真は撮れたのだが、しかし、これに句を付けるとなると、とたんに苦しくなる。猿そのものを詠もうとしても何も出てこないので、ついつい、人間に見立てた比喩的な表現になってしまう。
これがまた、人間そっくりで、こんな人いるよ、っていう感じなのだ。

咆える猿横顔 ポーズをとる猿
▲左:咆えている猿の横顔。なかなかフォトジェニックないい顔をしている。右:カメラを向けるとなぜか気取ったポーズを取るからおかしい。

黒い猿 立派な鼻髭の猿
▲左:真黒な手の長い猿。髪型が面白い。右:これはまた素晴らしい鼻髭だ。板垣退助に似ていないか?もっと貫禄があるかも・・・

写真を見ていてすぐに浮かんだのがこの句。しかし、この句以外、何も浮かんでこない。
今日、選挙の公示があって、また町の中が騒がしくなるが、そのイメージが頭にこびりついて離れない。猿の顔が××首相に似ている?ということもある。
というわけで、俳句研究はなし。





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