俳句について(4)類想・類句について-4

思春期

思春期は六十年の秋の棘

鉄条網を見ると、安保とヘルメットを思い出します。
また、この写真を見ていたら、なぜかジャスパージョーンズが描いた星条旗を思い出してしまいました。
1960年、何も知らずに飲み込んで、喉に刺さった棘が、未だに抜けないような……。
ひょっとして、喉頭がんはそれが悪化してできたのかも? 

◆  ◆  ◆

類想・類句について、今日、また一つ思いついたので書いてみます。

(2011年10月16日)

類想・類句に陥る三つ目のパターンは、「俳句らしさ」にこだわるという考え方です。これは、初心者に必ず見られる特徴で、類想・類句につながるもっとも大きな落とし穴です。
俳句を始めた頃は、どうしても俳句らしく作ろうとします。俳句らしさとは何かと聞かれてもわからないのに、とにかく俳句らしく作りたい。「や」とか「かな」などという言葉を使ってみたくなったり、「いのち」とか「生きる」といった言葉を使うと、何か高尚な俳句を作った気分になります。
俳句雑誌の投稿欄を見ると、同じような言葉がいくつも見つかり、また、いくつかのパターンに分けられるようです。

例えば、湖畔や海辺では、ほとんどの人が「佇み」、そして大概それは「一人」です。それも夕暮れ時が多いようです。
柿の木にはいつも赤い柿がたわわに実っているか、あるいは一つぽつんと夕日を浴びています。
故郷は、誰でも遠くにあって、遠い日のことや、やさしい母の姿を思い出します。
蝉は命の限りに鳴き、コスモスは可憐に風に揺れています。
どうしてみんなこうなるのかというと、これが俳句らしいと、俳句初心者の多くが感じているからではないでしょうか。
こうしたパターンにはまってしまうために、多くの類想・類句が生まれるのでしょう。
ところが、よく考えてみれば、大きな勘違いをしているのであって、多くの人が「俳句らしい」と思っている言葉の多くは、実は演歌やヒットソングの歌詞だったりするのです。
試しに、例えば芭蕉や蕪村などの俳句をぱらぱら見ても、「俳句らしい」と思われている「命の限り」とか「生きるため」とか「一人佇む」などといった言葉など一つも出てきません。
 
そもそも「俳句らしさ」とは何でしょうか。「俳句らしさ」なんてあるのでしょうか。
「俳句になっている」とか「これは俳句じゃない」とは、よく聞く言葉です。しかし「俳句らしさ」なんていう言葉は無いと思います。
「俳句らしい」というのは、「俳句のようではあるけれども俳句ではない」と言う意味にも取れます。うわべだけを真似た偽物と言うことになります(冗談です)。
「俳句」と言うからには、もちろん「俳句らしさ」というのはあるのでしょうが、それはパターン化できるものではなく、もっと深い何か、誰もまだ正確に定義づけていない、よくわかっていない何かなのだと思います。
少なくとも、「いのち」とか「生きる」とか「佇む」とかではありません。もし、そういう言葉が浮かんできたら即座に打ち消すべきです。そうじゃないと、間違いなく、何千万、何億という駄句の一句になってしまいます。
例えば「柿」を俳句にしようと思ったら、まず「赤い」「たわわ」「夕日」「ひとつ」と言った言葉は絶対に使わない、といった心構えが必要です。
そうしたことはわかっていながら、私はいまでも、慣用句や常套句を使ってしまうことがあります。
手拍子でスラスラ出てくる言葉は、大概そうした言葉です。特に感情が高ぶっているときなどは、自分がそうした言葉を使っていることすら気が付かないことが多いのです。
俳句を作ったら、必ず時間をおいてから推敲すること。作った時には気が付かなかったことに気付くことが多いものです。

<類想・類句を回避する方法/その3>

●「俳句らしさ」など気にしない。慣用句や常套句は無視して、感じたことを自分の言葉で表現する。



俳句について(4)類想・類句について-3

雨の湖畔

紅葉半ば雨蕭蕭と湖水打つ

中禅寺湖畔は、紅葉半ばにして、冬間近を思わせる冷たい雨に煙っています。
水墨画を見るような趣。五言絶句の漢詩が似合いそうな風景です。
漢詩は到底無理なので、漢詩風俳句というのはどうでしょう。

◆  ◆  ◆

(2009/03/30スローネット投稿)

類想・類句に陥る二つ目のパターンは、季語にこだわるという考え方です。
 俳句とは、五七五の有季定型詩であるとはよく言われることです。季題・季語や季感がなければ、俳句とは認めない人たちもたくさんいます。それほど、俳句にとって季語は重要なものです。
季語とは、季節を象徴的に表す言葉です。ここに今、資料などは何もないので、間違ったことを言うかも知れませんが、私が理解しているところで言えば、もともと、季語というのは連歌や俳諧から発生したもので、それが引き継がれ蓄積されたものです。
連歌や俳諧は、そのほとんどは、複数の人が一か所に集まって、共同で作る文学ですから、挨拶が重視され、特に発句には季節を表す言葉を入れる、ということがしきたりのようになったということでしょう。
そうした中で、季節を象徴的に表す言葉が厳選され、季語として定着していったものと思われます。ですから、季語には、数百年にわたって蓄積された人間の感性や知恵が詰まっている、といっても過言ではないのです。
例えば「桜」という春の季語。この「桜」という言葉は、「桜」と言うだけで、そこに込められた意味や感性は、ほとんどの人が理解できるため、説明する必要はありません。つまり、「さくら」という、たった三文字の中に、誰でもが認識している膨大な情報が蓄積されていることになります。
一言で季節を表し、また、作者の感性や心情までも表現する便利な言葉、それが季語なのです。
それほど便利な季語なのですが、逆に、その季語を使ったために、その季語に縛られて身動きできなくなる、ということもあります。
イメージが強烈で、人によく使われる季語ほど、そうしたことが多く出てきます。要するに使い古されて手垢がついた、というものです。
そうした手垢の付いた季語を使って句を作ると、どうしても類想・類句に陥りやすくなります。
よく使われる季語というのは、それだけ俳句の数も多く、目につく機会も多いため、どこか頭の隅に俳句の断片が残っているということがあり、自分でも気がつかずに使ってしまう、ということもあります。
また、多くの人が類想・類句を避けるために、あらゆる状況、情景を詠むわけですから、自分ではまったく新しい発想だと思っていても、実はすでに詠まれている、ということもあります。

もう一つ、季語によって類想・類句に陥りやすいのは、よく句会などのテーマとして、季語が出題されることです。
私は経験がないのでよく知りませんが、いわゆる「題詠」とか言われるものです。
季語をお題として指定され、実感や体験などとは関係なく、想像力で俳句を作るわけですから、自ずと観念的な句になりやすく、どこかにありそうな句になってきます。あるいは強引な取り合わせなどで逃げるような句になりがちです。
私は今、このスローネットのある方の歳時記コーナーに、題詠による俳句をときどき投句しています。それは、まだ俳句の初心者で、季語を覚えるという意味と、想像力を養うという意味からなのですが、実際に自分が体感したことではないので、どこか嘘っぽく、どこかで聞いたことがあるようなものを量産してしまいます。
人間の想像力などというのは、経験の積み重ねから生まれるわけですから、過去に見たものに似てくるのは当然なのです。
新しいものというのは、体験による感動と想像力によって生まれるもので、感動のないところからは何も生まれてこないのです。
 季語が類想・類句を生むというのであれば、季語を使わなければいいのか、というと、そういうことではありません。自分の今の感動を俳句にすれば、季語を意識的に使わなくても、そこには自ずと季感というものは出てくるものです。
なぜかといえば、人間の感情の多くは季節に左右され、作者はその季節に身を置いているからです。
私は、最初はまったく歳時記は見ません。推敲の段階になって初めて歳時記を見るようにしています。そうすると季語が重なっていたり、季節が違う季語が使われていたりすることが度々あります。
直してもいい場合は、できるだけ直しますが、直してしまうと感動が薄れてしまう場合は直さないことにしています。
例えば、春、辛夷や桜の花にはひよどりがよく来ます。花を食べるためです。そこが面白く、ひよどりの句を作ったりするのですが、歳時記を調べると、ひよどりは秋の季語になっています。ひよどりを春に詠んだのではおかしなことになってしまいます。
また、今日も実はムクドリの句を作ってしまいました。この時期、ムクドリは地面に降りてきて、しきりに土をほじくり返します。そこが面白いので、例えば「椋鳥や」などと作るわけですが、俳句の常識からいえばおかしな句になります。
私は、基本的に俳句は有季定型であるべきだと思っていますが、季語にこだわる必要はない、とも思っています。
歳時記に載っていなくても、季節を表す言葉であれば、季語だと思います。もともと季節などというのは、沖縄と北海道では違います。そこまで極端でなくても、例えば私の故郷である東北の日本海側と東京では、春という感覚が全く違います。
桜も桃もマンサクも水仙も、雪が解ければ皆一斉に咲く感覚ですから、必ずしも歳時記に書いてあるようにはいきません。

ここで、ちょっと説明不足で強引ですが結論です。
季語にこだわるから、その季語の呪縛から逃れられなくなるのであって、季語を無視すれば、もっと自由な発想が得られるはずです。

<類想・類句を回避する方法/その2>

●季語にこだわらず、実感を重視する。気重なりや季のずれをあまり気にしない。
 


俳句について(4)類想・類句について-2

秋の湖

背負うもの人それぞれの秋の湖

湖の一か所にボートが集まってきました。
仲間ではないようです。釣りのポイントなのでしょう。 
どうしてこんな日に、しかも、働き盛りで家庭も持っていそうな中年が、
家族を残して、わざわざ釣りに来るのでしょうか。
接待ゴルフなどとは、動機が全く違うようです。

……それはさておき。

◆  ◆  ◆

(2009/03/26スローネット投稿)

類想・類句が出てくるのは、俳句の構造や性質上、やむを得ないこと、避けられないことなのでしょうか。
類想・類句が出てくる背景を考えてみると、いくつかのパターンがあるようです。
すぐに思い当たるのが、最高の表現は一つしかない、という考え方。最高の頂点に向かって進むのだから、たとえ道は違っても、頂点に近づけば近づくほど、似てくるのは当然のことだという考え方です。
これは、俳句初心者よりも上級者に多いのではないでしょうか。上級者の多くの俳句はうまいと思わせるな「なにか」を持っていますが、その「なにか」が実は曲者で、みな似ているのです。

よく、いい俳句は、言葉をどう動かしようもない、などといいます。例えば、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」という句、これは、「古池」も「蛙」も「水の音」も、どれも動かすことができない言葉だと言われています。
たしかにそうかもしれません。それでは、この芭蕉の句が、蛙の句の頂点かといえば、そうとも言えません。世の中には蛙を詠んだ句はたくさんあるはずで、それがみな、芭蕉の句と同じになってしまう、などということはないわけです。
なぜかといえば、表現というのは無数にあって、これしかない、これが最高の表現だ、などというものはないからです。
人それぞれ、生まれ育ちの環境、時代によっても変わってくるし、時には、同じ人でも今日と明日では微妙に変わってきます。
それでは、表現の評価の基準はどこにあるかといえば、それは非常に難しいのですが、最低の評価基準として一つ言えることは、その表現が斬新であるかどうかということです。
芭蕉のこの「蛙」の句のどこがいいかといえば、その斬新さであると思うのです。それまで、「蛙」といえば、その鳴き声を詠む場合がほとんどで、池に飛び込む水の音を詠む人などいなかった。そこが非常に斬新だったわけです。
もし、芭蕉が「蛙」は鳴き声を賞味するものだ、という既成概念にとらわれていたら、この句はないわけで、また、もし、そうした既成概念で「蛙」の句を作ったとしたら、それは数多ある蛙の類想・類句として消えていったでしょう。
その斬新さを強調するために、上五に何と置くか、芭蕉はさんざん悩んだらしい。其角は「山吹や」と置いてはどうかと進言したらしいのですが、結局、芭蕉は「古池や」と平凡に置いた。これがこの句の斬新さを際立たせることになったのです。
仮に「山吹や蛙飛び込む水の音」として、それはそれで十分に印象に残るいい句だとは思うのですが、「蛙」に「山吹」の取り合わせは、当時としては常識だったようで、いわば類想と言えるものです。
それに、肝心の「水の音」がかすんでしまい、「蛙」ではなく「山吹」が主役の句になってしまうのです。
つまり、「蛙」の句は、どの言葉も動かしようがないのではなく、動かしてしまったら全く違う俳句になってしまう、ということなのでしょう。
動かしようもない言葉などというものはなく、動かすことによってどう変わるか、を見極めることが大切です。それによって類想・類句を避けることが可能になります。
既成概念にとらわれずに、発想や言葉の表現は無限にあると考えれば、類想・類句を避けることはそれほど難しいことでもないようです。

<類想・類句を回避する方法/その1>

●既成概念にとらわれず、発想や言葉の表現は無限にあると考える。



俳句について(4)類想・類句について-1

秋雨

秋雨に遊びをせむとや舟を出す

中禅寺湖の秋は雨の中。
岸辺に無雑作に駐車してあるRVがカッコいい!
まさに「遊びをせむとや生まれけむ」です。 

◆  ◆  ◆

最近、偶然同じ言葉を使った俳句に出会うことがよくあり、しまったと後悔することしきりです。
なぜか、同じ時に同じようなことを考えている人がいるから不思議です。
以前、類想・類句について、「スローネット」というサイトに投稿したことがあるので、それに少々手を加えて掲載しようと思います。

俳句について(4)類想・類句について
 (2009/03/13スローネット投稿)

俳句をたしなむ人は誰でもそうだと思いますが、私は、基本的に類想・類句を嫌っています。
著作権とかいう難しいことではなく、同じ発想や同じような表現の俳句を作っているのでは、俳句を作る意味がなく、また、俳句を鑑賞する側の人間にとってもあまり意味がないことだからです。
意識的に真似をするのは論外としても、無意識にしても、似ているということは、ある種、恥だと思わなければならないでしょう。
ところが、類想・類句にはちょくちょくお目にかかるし、また、自分の俳句にもそれは多くあります。その時に気がつけばいいのですが、発表してから気がつくことがあるので、始末が悪いのです。
一昨日にこのブログの別タイトル「夢うつつ」に掲載した俳句、 「遠き日やバケツの中で鳴く泥鰌」は、真似と言われても仕方がない句でした。
今朝、電車の中で一茶の本を読んでいて、気がついたのです。

夕月や鍋の中にて鳴く田螺    一茶

遠き日やバケツの中で鳴く泥鰌  無一

これを真似と言わずに何と言うか。弁解の余地もありません。
ところが、私はこれをまったく意識していなかったのです。というよりも、一茶のこの句を知らなかったのですね。
あえて弁解すれば、この句は、去年の5月頃、以前描いた泥鰌の絵に俳句を付けたもので、初案は 耳の底バケツの泥鰌鳴いている というものでした。
子供の頃、田んぼの用水路で捕ってきた泥鰌が、バケツの中で泡をふきながらキュウキュウ鳴いているのを思い出して作ったものです。推敲しているうちに、最終的に掲載してあるような句になりました。
それにしても、発想、言い回し、リズムなど、あまりにも似すぎています。
一茶のこの句がどれほど有名かはあまり知りませんが、どこかでこの一茶の句を目にしている可能性もあります。
一茶に関する本は、この一年の間に俳句関係の本を少しと、それから数年前に藤沢周平の「一茶」という本を数回読んだだけ、この句に関してはまったく覚えがありません。
気づいてしまうと、もう恥ずかしくて見るのも嫌なので、すぐに削除し、初案に戻しました。

 俳句を作っている最中は、こういうことはよくあります。特にすらすらと出てきた時は怪しいと思わなければなりません。おそらく、どこか頭の中に他人の俳句が入っていて、それが、季語等の言葉に触発されて出てくるのでしょう。
そもそも、俳句は、たった17文字しか使えない不自由な文学です。もし季語を使うとすれば、残るは12文字程度です。ここにオリジナリティなどどれだけ出せるのでしょうか。
年間、おそらく数十万数百万の俳句が作られているはずです。中には全く同じ俳句があっても不思議はありません。
特に季語を使うとすれば、季語から連想される情景や情緒などは当然似てきます。類想の句が出てくる可能性は非常に高いわけです。
例えば、去年の春、三月に、私はブログに、

土筆の子一つ見つけてまた一つ

という初心者丸出しの句を掲載しました。
翌月、何という雑誌だったか忘れましたが、本屋で俳句雑誌の投稿欄を立ち読みをしていて、まったくと言っていいほど似ている句を見つけたのです。
一瞬、真似されたかと思いました。が、よく考えてみれば、そんなことはないのですね。雑誌に俳句が載るまでは、投句してから二、三ヶ月はかかるはずです。真似して投句することは不可能なのです。
下手をすれば、どこかにこの句とよく似た句があって、私もその句を真似したのかもしれないのです。
たしか、正岡子規が、俳句の言葉の組み合わせにはいつか限界が来る、というようなことを言ったとか、何かに書いてありました。
そうした可能性もないではないのです。

泥鰌 ツクシ
▲左:初案に戻した泥鰌の俳句。 右:ほとんど同じ句を見つけてしまったツクシの写真俳句。


類想・類句をどう考え、どう対処していくか。そのことについてはまた後で。(続く)



俳句について(3)なぜ俳句なのか-5

コスモスが枯れました

何も無い庭コスモスも枯れました

海へ出る途中に、放ったらかしの庭があり、草ぼうぼう。
最近まで、その雑草の中にコスモスが3〜4株咲いていたのですが、昨日通りかかったら、そのコスモスもたった一輪を残して枯れていました。
俳句は、ちょっと自由律風に作ってみました。その方がコスモスの可憐な感じが出るような気がして。

◆  ◆  ◆

●俳句と社会性

ここで言う社会性と言うのは、社会や日常生活、人情などを俳句にするということではなく、俳句が社会とどうかかわるかという話です。
絵でも俳句でも、自分だけのもではありません。積極的であれ消極的であれ、どこかで人の目に触れます。ほとんどは、人の目に触れることを前提にして作られるものです。
人の目に触れることによって、そこに社会性が出てきます。自分だけのものではなくなるわけです。
俳句の目的が自分との対話であり、生きていることの認識にあるとすれば、社会とのかかわりという、そこにひとつのジレンマが生じるように思います。独りよがりの俳句はだめだと言われる所以もそこにあるわけです。
その社会性との矛盾をどう説明するのでしょうか。

答えはおそらくこうです。

俳句を作る行為、というか思索が純粋であればあるほど、その作品は、その純粋さゆえに強い社会性を持つ。社会に強い影響を与えることができる、ということにならないでしょうか。
俳句に社会性を持たせるために、誰にでもわかる俳句を作るのではなく、純なる自分に向き合って苦しみながらつくることによって、最終的にその純なる自分が、その作品に納得することによって、それは優れた社会性を持つ俳句になる、ということではないかと思います。
自分が納得しないものが社会に強い影響力を持つ、ということがもしあるとすれば、それはどこかでゆがめられた社会性です。
抽象的な言い方しかできなくて、説明が難しいのですが、月並みなものを作るな、俳句らしい俳句を作るな、誰にでもわかる俳句を作るな、などとよく言われるのは、このことを証明しているように思います。
混乱しているのでまとめてみます。

●なぜ俳句を作るか=答えの出ないいい加減さ、底の深さに魅力を感じるから
●俳句を作る意味(目的)=純粋さと向き合い、自分が生きているということを認識・確認すること
●俳句の社会性とは=創作の純粋さ。純粋であればあるほど、社会に強い影響力を持つ

あらかたこんなところでしょうか。 <続く>



俳句について(3)なぜ俳句なのか-4



秋刀魚鯖茄子松茸新酒かな

久しぶりにNHKのカシャッと一句フォト五七五に投稿した中の一つで、テーマは「太る」でした。
アイデアとしては、太っていることを気にしない布袋さんの写真で、季語になっている秋の味覚を並べ、おいしいものをたくさん食べよう、ということだったのですが、類想・類句は多いので、その中で独自性を持つことは難しく、この句はあまりいいできではありません。
まあ、こんなものも作ってみたということで……。

◆  ◆  ◆

●俳句の目的

俳句をなぜ作るか。こう考えてみましょう。
普通、一般的には、人が何かものを作る時、それは、何らかの目的があるから作ろうとします。それと同じで、俳句を作ろうと思うのは、何か目的があるからそう思うのでしょう。
それでは、俳句の目的は何でしょう。暇つぶしでしょうか。自己満足でしょうか。他人を喜ばせることでしょうか。
私は絵を描いています(というか描いていました)。絵を描くことが好きで好きでたまらない時もありました。また、絵を鑑賞するのも好きです。絵を鑑賞しながら、こんな絵を描きたいと思っていました。
これは、俳句を作ることと非常に似ています。
絵や俳句は、鑑賞して、共感して、自分で作ることができます。感覚の世界です。機能などは要求されません。ただ表現するだけですから、意味さえ求められないものです。
私が写真俳句を作る時は、まず写真を撮るところから始めます。
そのときは、俳句のことはまったく念頭にありません。私の写真は、自然を撮ることが多いので、自ずと自然に向き合うことになります。自然に向き合い、何かを感じた瞬間を写真にするわけです。
それで、家に帰ってすぐ、自分の撮った写真を見ます。何を感じてこの写真を撮ったのか、シャッターを押した瞬間を思い出しながら、そこから何かが生まれてくるのを待ちます。
その時私は、感情の赴くままに、あるいは無心にその写真と対峙しています。世の中の雑事はすべて頭から離れ、時間は止まっています。
つまり、自分と向き合っています。人への気兼ねも、おもねりも、打算も何もない、純粋な自分と向き合っているはずです。
自分と向き合い、自分と対話する。正確にいえば自分と写真(自然)が対話しているのです。
俳句を先に作ることができないのは、そこに対話する相手がいないからです。
もちろん、自然の中にいてじっと向き合っていれば作れないこともないと思うのですが、それでは、行動半径が限られ、対話の世界が狭くなってしまいます。
写真に撮っておけば、空いた時間にいつでも、“その時”にタイムスリップできます。
 自分でも知らない自分を見つける、もっと大げさにいえば、人間の根源、悪とか善という概念が生まれる前の、生きているということそのものを認識する、自然の中での自分の存在意義を確認する、それこそが、絵を描き、俳句を作る目的であると思います。

私にとって、俳句を作ることは、絵を描くことと同じなのです。<続く>



俳句について(3)なぜ俳句なのか-3

ペットボトル

赤まんまペットボトルに挿したまま

海岸を散歩していたら、波打ち際にこんなものを見つけ、子供のころを思い出してしまいました。
家の前のサラサラ流れる小川の縁で、よく野草を相手に遊んだものです。 
今はペットボトルなどで遊んでるようですが、昔は牛乳瓶とか、ラムネのビン、缶詰の空き缶、ビールのふたなどがなどがおもちゃでした。
一時間ほどして戻ってきたら、潮が満ちてきていて、赤まんまは、見ている前で波にさらわれてしまいました。

◆  ◆  ◆

●俳句の魅力

さて、本題に移りましょう。
私は、ほとんど何の役にも立たないと思われる俳句を、なぜ作ろうとするのでしょうか。俳句を作る意味は、どこにあるのでしょうか。
簡単に言ってしまえば、俳句には、作ろうとするだけの魅力がある、魅力的だから作りたくなる、ということになります。
俳句の魅力とは何かといえば、それは人によっていろいろでしょうが、私は、答えのないパズルの魅力ではないかと思っています。
俳句は作ろうと思えば誰でも作れます。子供でも作れますね。子供の作った俳句を見るとびっくりさせられることも多くあります。
しかし、難しく作ろうと思うと、これほど難しいものはありません。 やさしく作るか、難しくするか、そのハードルは、自分で操作することができるのです。
自分は出題者であり、作者であり、先生であり、批評家です。答えなど元々ないのですから、評価などどうにでもなります。できたといえばできたのであり、できないといえばできない。ここが答えのないパズルだということです。
俳句は、文字数をわざと17文字という、何も言えない文字数に制限してしまいました。それは、答えを出させないためとしか思えません。
五七五七七であれば、五七五で問題を提起して七七で応えることができますが、五七五だけでは問題を提起するだけで精一杯です。あとは読み手にまかせるほかありません。
答えのないパズルの、そのあいまいさ、いい加減さが、私にとっての俳句の魅力なのです。
おそらく、私は、俳句をやさしく楽しいものだと考えていたと思います。そしてしばらくはそれでもよかったのです。そのままいけば、俳句とはこんなものだ、と納得してしまい、それきりで終わってしまったかもしれません。おそらくそうなっていたでしょう。
ところが、なぜか、俳句に疑問を感じてしまいました。
俳句ってこんなもの?これでいいの?と。いわば、俳句のハードル、難易度を上げてしまったわけです。
パズルが好きな人はわかると思いますが、簡単なパズルはあまり面白くありません。難しくなればなるほど、面白くなり、夢中になります。そして解けた時の快感は、その難易度に比例するのです。
俳句にのめりこむプロセスは、まさに、パズルやゲームにのめりこむプロセスと同じといえます。
パズルと違い、答えがない分、奥が深く底なしになります。<続く>



俳句について(3)なぜ俳句なのか-2

竹の春

さやさやとささやく秘密竹の春

逆光をあびて、竹の葉が輝いています。
竹の春という季語は今頃ではなかったかと歳時記を見ると、ありました。
竹は筍の生えるころに落葉し(この時期を竹の秋と言います)、秋になると筍が育って葉を茂らせ鮮やかに輝くのだそうです。
確かに、「竹の春」とはよく言ったもの、この柔らかい緑がなんともいえません。

◆  ◆  ◆

●本から学んだこと

当時(といっても三年ほど前ですが)は、俳句が楽しくてたまりません。次々と本を買っては読み、俳句の何であるかを知ろうとしました。
その中で共感したのは、小西甚一氏の「俳句の世界(講談社学術文庫)」でした。
先に読んだ山本健吉氏の「俳句とは何か」は、読んでいてまったく理解できなかったのですが、この本は、何となく言っていることがわかるのです。
俳句とは俗の文学だということを、すんなりと受け入れることができ、自分がこれからやろうとしている俳句というものが、それほど無意味なものではないと思うようになりました。
興味を持つということは不思議なもので、次から次へと興味の幅が広がっていくのですね。
江戸時代の俳諧の世界でいえば、芭蕉、蕪村、一茶は勿論、「蕉門の人々」など、芭蕉の周囲の人々の句にも、一通り目を通してみました。
明治ではやはり、正岡子規。その周辺のいわゆる日本派と呼ばれる人たち。そして虚子とホトトギス。新興俳句といわれる俳句から、飯田龍太などの現代まで、手に入る本は手当たりしだい読みました。というよりも短期間に乱読した、という方が当たっているでしょう。
中にはつまらないものもありましたが、非常に役に立ったり、興味をひかれたものもあります。
前述した、小西甚一氏の「俳句の世界」は、俳句の歴史や変遷を知る上で非常に参考になりました。
それまで俳人といえば、芭蕉、蕪村、一茶、子規、虚子などで、それも名前を知っている程度でした。虚子などは本当に名前だけで、代表句は何かといわれても全く知らない状態です。
そういう意味では、この本は、私に俳句の道を開いてくれた本でした。
 
印象に残って、何度も読み返した本といえば、まず、河東碧梧桐の書いた「子規を語る(岩波文庫)」です。
これは、子規の人間性を知る上で、非常におもしろいもので、子規の伝記や著書とはまた違う、子規を見る思いがしました。
子規の「病床六尺」などに、盛んと虚子とか碧梧桐の名前が出てきますが、河東碧梧桐がどんな人かを知ったのは、この本からでした。
碧梧桐が子規をどれだけ尊敬していたか、この本を見れば涙が出るほど明らかです。どうしても虚子よりも碧梧桐びいきになってしまいますね。
明治の文学青年が俳句にのめりこんでいく様子がよくわかり、非常におもしろく読みました。

もう一つ、これは、俳句を作る姿勢を学んだということで、忘れられない本があります。飯田龍太氏の「俳句入門三十三講(講談社学術文庫)」です。
恥ずかしい話ですが、私はこの本を読むまで、飯田龍太という名前さえ知りませんでした。父親の飯田蛇笏氏は、現代俳句関連の本にはちょくちょく出てくるので名前と若干の作品は知っていたのですが、息子がいて、俳句をやっているなどというのは全く知らなかったのです。
ところが、私にとっては無名のこの息子さん、なかなかいいことを言うんですね。いっぺんに虜になってしまいました。
言葉の一つ一つに、品がよくやさしい、氏の人間性が出ていて、俳句とは詩だということを、何度も教えてくれます。
俳句が作れなくなった時、迷った時、何度も読み返しました。そういう意味で、この本は、私に夢を与えてくれた本です。この本がなかったら、とっくに俳句はやめていたかも知れません。

なぜ俳句なのか、なかなか本題に入れませんが、長くなりそうなので、この続きはまた後で。(続く)



俳句について(3)なぜ俳句なのか-1

抜け道

抜け道や秋風抜けて船抜けて

散歩で海へ抜ける時の近道。いつも釣り人や潮干狩りなどをする人たちが通るので、 道は踏み固められ、けもの道というよりも道路です。
いつものように、ここを通りかかったときに、たまたま船がこの破られた空間を通り過ぎました。瞬間のことだったので、シャッターを切れたのは2枚だけ。その最初の一枚です。

◆  ◆  ◆

これからしばらくは、私はなぜ俳句を作るのか、短歌や詩ではだめなのか、といったことについて話します。

俳句について(3)なぜ俳句なのか

●俳句の動機

俳句に関するいろいろな本を読んでいると、例えば、有名な俳人が俳句を作ろうとした動機は、人それぞれです。ただ、共通しているのは、みんな若いときから俳句を作っていると言うことです。
自分がそうだから思うわけではないのですが、俳句と言うのは、どこか老人の趣味で、会社を定年退職したような人が、暇をもてあまして作る、というようなイメージを持っていました。
ところが、現代の俳人は、学生時代とか、早い人は中学生の頃から俳句を始め、若くして名をなしている人が多いようです。
考えてみれば、俳句も文学です。十代の少女が芥川賞を受賞する時代です。俳句も、感受性に優れた若い人が優れているのは、当然と言えば当然です。
高名な俳人の俳句をはじめた動機は、

(1)親や兄弟が俳句をやっていたため、自然と俳句を作るようになった
(2)中学、あるいは高校の頃に友達に誘われて俳句をやるようになった。
(3)たまたま、学校で俳句を習い、何かに応募したら当選してしまった。
 
特に多いのは(1)のようで、環境なのか才能なのか、蛙の子は蛙ということなのでしょう。
さて、振り返って自分を見ると、 ・ようやく仕事から解放され、時間をもてあまし気味なので、何かを始めたい。 ということがまず、前提としてあって、その上で ・写真でも撮ろうか→写真はただ撮るだけだから簡単→それではあまりにも簡単すぎるから俳句でも付けよう。
ということで、「俳句でも」という、俳句でなくてもいいわけで、いわばどうでもいい感じで始めたことになります。
高名な俳人とはすでにこの時点で大きく差をつけられていることになりますね。
ところが、もともと熱くなる性分なので、やり始めるとのめりこんでしまう。
だからといって、俳句教室とか結社などというものには興味がありません。一方的にテーマを押し付けられたり、自分の作品を勝手に変えられたりすることに耐えられないからです。
頼るのは、先達の俳人の句と俳句関連の本、それと自分の感性だけです。
最初のうちは、何の迷いもなくどんどん作れてしまいます。こんな簡単に作れていいのだろうか、と思うほどです。
ところが、あるときを境に迷い始めてしまうのですね。自分の俳句がつまらないものに感じるのです。どこが新しいのか、人と同じではないか。俳句を作る意味があるのか。そう感じたのは私の場合は、俳句を始めて二ヶ月ほど経った頃でした。
それから、俳句を作ることが苦痛になったのですが、またある日、突然、俳句と言うものがわかったような気がしたのです。
後でそれは錯覚にすぎないことがわかったのですが……。それが

バッハでもモーツアルトでもなく冬の音  無一

という句です。この句が浮かんだときは、これはできたのではないか、と思いました。これこそ俳句だと。
うれしくなって、これを誰かに見せたいと思い、ネットでいろいろ調べた結果、NHKにフォト五七五というものがあることを知り、応募したところ、サイトで紹介されたのです。
写真俳句にのめりこむようになったのはそれからです。

なぜ俳句でなければならなかったのか。この続きはまたあとで。(続く)



俳句について(2)現代俳句の本質-2

蓼の花

前略のインク滲んで蓼の花

昨日の夜、なんとなく浮かんだ句で、写真は後付けです。
「滲」と「蓼」の字がどことなく似ていておもしろいと思いました。
頭の中で作った句なので、どこかに類想・類句がありそうです。

◆  ◆  ◆

「(2)現代俳句の本質」を踏まえ、実際に私が写真俳句を作ったときの思考の変化を再現してみます。

●ケーススタディ

「アイデア・エスプリ・レトリック」。私は最近は、この言葉を頭において俳句を作ることにしています。
俳句は、特に写真俳句は、手拍子でぽっと出てくることがあります。そのときはいいものができたような気がするものですが、そんな時、私は、「アイデア・エスプリ・レトリック」を思い出し、推敲することにしています。
そうするとほとんど落第で、直しているうちにどんどんわけのわからない句になっていってしまいます。
例えば下の様な写真俳句があります。

鉄条網 自由への抜け道
▲左:(1)「秋茜切られしままの鉄条網」  右:(2)「自由への抜け道猫と赤まんま」


最初にパッと出てきた俳句は、

秋茜切られしままの鉄条網 ----(1)

でした。
しかし、これは、「秋茜」と「鉄条網」の組み合わせは当たり前で、写真にあまりにも似合いすぎているなど、アイデアがありません。
また、上五が漢字の体言で、下五も漢字の体言止めというところが、レトリック的に気に入りません。
それで、

赤のまま切られたままの鉄条網

と変え、写真も、もっとシンプルで象徴的な(2)の写真に変えてみました。
これはそれほど悪くない俳句だとは思っています。
「赤のまま」と「鉄条網」の組み合わせには、やさしさと強さ、自由と規制といった対比があり、意外性としてのアイデアがあります。また、ちょっとしゃれっ気のあるエスプリも感じます。
「赤のまま」と「まま」の語呂合わせも、わざとらしいところはありますが、まあ、レトリックとして悪くはありません。
ただ、大きな不満は、俳句の発想(アイデア)が写真に引っ張られて、写真を説明するような俳句になってしまったことです。
切れた鉄条網は写真で象徴的に表現しているので、言わなくてもわかります。むしろ、切れた鉄条網から導き出される何か別の世界を表現する必要がありそうです。
そこで、

赤のまま猫と釣り人通る穴

としてみました。
「猫」を先にするか「釣り人」を先にするかなどさんざん悩んだのですが、実は、そんなことはどうでもいいことでした。
ここでの最大の欠点は、主役が三人もいて、焦点がぼやけてしまったことです。
写真の鉄条網がまったく生きてきません。
そこで、少し時間をおいてから、もう一度挑戦してみました。
 
自由への抜け道猫と赤まんま-----(2)

これが、ようやくたどり着いた句ですが、いじりにいじって、とうとう何だかわけのわからないものになってしまいました。
こうなるともう俳句というよりは、独りよがりの断章です。
何でも言いたくなって詰め込みすぎたのです。
これも推敲の結果です。結果は悪くなったとしても、それはそれほど問題ではありません。私にとっては推敲することこそが重要だとも言えるのです。
とはいえ、実は自分では、それほど悪い句だとは思っていません。
ちなみに説明すると、「自由への抜け道」と言う言葉は、切られている鉄条網からひらめいた「アイデア」です。(平凡ですが)
「猫」と「赤まんま」は自由の象徴であり、その取り合わせには、どこか「エスプリ」が匂います。
というように、説明などと言うのは、どうにでもなるのです。
けなすことも褒めることも自由自在、特になんだかよくわからないものは……。 <続く>



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